佐々木小次郎(後編)/ 佐伯清監督

1957年東映映画。前編に引き続いて後編も見た。ぼくがこの『佐々木小次郎』を見るのは単なるノスタルジーにすぎない。しかし、その気持ちは満たされなかった。当時見ていた東映映画は、もう少し前の作品で、この映画は小さくまとめているような、窮屈さを感じた。ぼんやりとした記憶が残る映画は、もっと奔放なちゃんばら時代劇だったような気がする。

小次郎は素性の知れない我が身ゆえに受けた差別を、こころの傷として持ち続ける。そうした日本の封建制への対極に琉球やキリシタン、または、歌舞伎のお国を登場させ、それらに対する小次郎の憧憬から、複雑なこころのうちを表現したりする。しかし、小次郎は武蔵と違って、士官への希望を抱いたり、恋を優先させたりと、自らのスタンスを決めかねる人間だった。

運にも恵まれて活躍でき、士官を進められるが最終的には、大名の庇護の元、小倉で道場を開き成功する。そのうえ、在郷の恋人で、大坂天満ではぐれたままになっていた、とねが訪ねてきたのだ。二人の祝言の許しを家老に願いでた日、小倉に来ている武蔵のとの決闘を打診される。決闘は武蔵を庇護する大名家からの要請があった、しかし、小次郎の方は本人の意向が尊重されたが、彼は決闘は祝言とは別であり、自ら望むものと快諾する。

当日、小次郎は許嫁と大勢の門弟が見送る中を出立する。決闘場のシーンは、遅い武蔵の到着を待ちかねて静まり返っている。イラつく大名の側近とは別に、小次郎自身は、涼しい顔で、浜の花などを愛でている。ほどなく、武蔵は船頭に船を漕がせる小舟で落ち着き払っている姿が見える。武蔵が削った櫂を武器にしているのを見て、小次郎は木刀を手にする。動きの少ない二人だが、水面に反射した光線が小次郎の面を照らして、勝負を掛けた打ち合いが始まり、武蔵の櫂が小次郎の頭を一瞬、打ち据えるが、武蔵の鉢巻きが切れている。再び両者は動かない。しかし、小次郎が崩れるように浜に倒れ込む。

介添えの友が小次郎を抱いて、立派な果たし合いだったと連呼する。立派というのは、決闘だけを対象にしていない。小次郎は、社会的地位と家庭を手にいれつつ、剣客をも選んだ。戦後、10年の日本では剣客だけでは人望を得ることはできない。地位と家庭があるからこそ、決闘に破れても賞賛される。そういった教えの映画のように見える。武蔵は、己の剣は己一人で極める、と言い切っている。小次郎との決闘に望んでも、単に時間を遅れて到着したわけではない。この映画からも、潮の流れ、太陽の方角などを読んで決闘に望んでいることが暗に説明されている。でも、それは武蔵を讃える要素ではない。逆にそういう情報戦を取り入れない、小次郎こそ賞賛されている。うーん、腑に落ちない。地の利を生かした情報こそ小次郎の側に利するはずだったのに。

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カテゴリー: Movie