最近は、ジャズというと、50sハード・バップばかりで、部屋では新しいサウンドを聞くことはなかった。昨日、大阪中央区南本町のクラブ、jaz’room “nu things” で『Dig in nu jazz-』と名付けられた阿木譲氏のDJを聞いてきた。ここ2、3年のフィンランドやイタリーの nu jazz から選曲したDJイングだった。全体にアップテンポな曲が選ばれていたせいかもしれないが、そこにぼくは、50sから60sのハード・バップを感じていた。
モダンジャズのプレイヤーは、やっぱりハード・バップ抜きに考えられないと思う。ハードバップ(正確にはビバップ以後だが)からモダンジャズが始まったと思う。ファンキー・ジャズもフリー・ジャズもフィージョンもすべてがモダンジャズにくくられる。
じゃ~、テクニックとしてのハード・バップを学校かどこかで習得すれば、それでジャズマンなのだろうか。問題なのは、ハード・バップの精神性を何処で身につけるかだと思う。ヨーロッパの nu jazz ミュージシャンたちは、そこのところをクリアーするぼくの知らない強い文化的背景があるように思えた。
彼らは、まずなによりもしっかりとハード・バップをプレイしている。じゃ~、ヨーロピアン nu jazz って、アメリカの50s、60s ハード・バップとどう違うのだろう。たとえばの話、ヨーロピアン nu jazz はハード・バップというコアな中心部分をヨーロッパ文化という透明なゼリーでくるんだようなものだと思う。ゼリーによって屈折した光の反射としてぼくたちはコアな部分を見ているはずだ。その屈折はビートによって痙攣的に振動している。その屈折が聞こえてくるヨーロッパ文化だとおもう。言葉を変えて言うなら、 nu jazz は耽美な装いまとったハード・バップ・・・、昨夜の余韻に浸り、ユッカ・エスコラを聞きながら考えた。