阿木譲氏のDJイング、GREEDY BUGS IN THE ARCHIVE VOL.1(2)

2夜連続のGREEDY BUGS IN THE ARCHIVE VOL.1、2日目も行ってきた。昨夜はちょっと分からなくて消火不良のままだった。今夜は理解できたと思う。行って良かった。なぜ、昨夜は受け入れることができなかったんだろう? アイデンティティの問題だと思う。ジャズでいうなら、スイングジャズをアイデンティティが拒否するところからビバップが誕生し、ハードバップ、フリージャズと進んでアイデンティティの過剰からジャズが行き詰まる。パンクやニューウエイブ・ロックだって同じようなものだが、こちらは市場経済に取り込まれて破綻する。そして90年代、ぼくのような聞き手は、行き場を見出せないままのアイデンティティが宙に浮いた状態だったんじゃないかと、今夜の阿木譲氏のDJイングを聞いていて感じた。

つまり、宙に浮いたアイデンティティを引きずっていたので、昨夜は分からなかった。90年代のジャズはアイデンティティの解放なんじゃないかと思う。ここには、なんでもありだ。ソウル、ファンク、フリーやスピリチャルなジャズと何でもある。アイデンティティを引きずっていてはとうてい受け入れることはできない。

フリージャズの時代に始まったフュージョン・ジャズが現在の nu jazz につながっていると思っていたが違うと感じた。フュージョン・ジャズは過剰なアイデンティティに陥ったフリージャズのアンチジャズなだけで、真に新しいのは90年代のジャズなんだと、今日聞いていて思った。90年代はジャズの既成概念を変えている。いうならDJイングと同質なものを感じた。

で、阿木譲氏のDJイングも2006年から今年に掛けての主にハードバップを素材にしていた Hard Swing Bop シリーズのDJイングとは質的に違うと感じた。たぶん、今夜こそがDJイングなんじゃないかと思った。20世紀初頭のダダであり、60年代のゴダールのヌーヴェルヴァーグなどからつながるアヴァンギャルドなアートだと思う。全く音楽を聞いていなかった90年代だったが、ぽっかりと空いていた空白が少しは埋められた気がした。