女と男のいる舗道 / ジャン・リュック・ゴダール監督

1962年フランス映画。『女は女である』に続いて『女と男のいる舗道』を高校生の時に見ているはず。前者はコメディタッチの明るい作品で好印象を抱いたが、後者は暗いストーリーがショックだった。当時見ていた映画で『女と男のいる舗道』がとりわけ暗い内容だったわけではないのに・・・。イタリアンネオリアズムはもっと暗かった。それにつづく、ヴィスコンティのとても暗い『若者のすべて』はすでに見ていた。それなのに、『女と男のいる舗道』から受けた強い衝撃は、ヌーヴェルヴァーグという映画の描かれ方から、堕ちて行く女の人生を他の作品とは比べものにならないぐらいに、リアルに受け止めたからに違いない。

主人公が拳銃で撃たれて、路上にひっくり返ってすぐに映画が終わるのは『勝手にしやがれ』と同じだが、それを見るのはずっと後だった。17か18才で映画のこのような終わり方はショックだった。この最初の印象が強いせいか、ゴダールの作品の中でも特別に暗い映画として、ゴダールの他の映画とはちょっと違う想いを抱き続けていた。

久しぶりに見たが、年をくっていてもやっぱりキツイ映画であることには変わりなかった。いろいろな事により理解度が増しているので、湿ったストーリーと乾いた映画表現という落差に改めて、ゴダールの才気に圧倒された。

この映画はナナ(アンア・カリーナ)ただ一人が主人公で、助演者もいない。人も含めて全てがナナの背景のようだ。人も街の風景も音楽も全てがアンナ・カリーナの背景だ。とりわけ重要な背景は、アンナが映画館で見るカール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』だった。トリフォー監督の『突然炎の如く』が上映中の映画館の前を通るが、こちらは単にご愛嬌。また、ゴダールは街にナナを立たせたときの背景に看板やポストーなどのタイポグラフィーに気を使っている。ダダイズム風タイポグラフィーを背景に娼婦ナナ(=人生)を立たせることで、見る者を異次元へ誘いこんでいる。

助演者はいないと書いたが、バーの2階で一人、ビリヤードに興じている青年がそうかもしれない。その青年にナナがこころを動かすシーンに今回は圧倒された。青年が階下のカウンターからジターヌを買ってきてナナに手渡すシーンに目がうるんだ。かつて喫煙中、粋がってジターヌを吸っていたことがあった。どのタバコともちがうジターヌ独特の匂いの紫煙が脳裏の中で煙った。

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カテゴリー: Movie