とても気になるタイトル。時代は現代。・・・車の前にカンガルーが飛び出してきたり。れれっ思って、後ろの作家紹介を読んだら、オーストラリアの作家。舞台はその田園地帯。あのナチスのヒットラーなので、はなからヨーロッパのお話と思い込んでいた。なぜ、オーストラリアなのかは、最後に分かる。
子どもたちは、毎朝、家族にスクールバスの停留所まで車で送ってもらう。主人公たちの停留所にはいつも決まった4人が集合する。遊びながらバスを待つが、遊びの一つにお話ゲームがある。ある雨の日、久しぶりにお話ゲームをしようとなって、一番お話のうまいアンナが「ヒットラーのむすめの話」をするという。そのお話は何日も続き、その影響を受けた子の意識の変化も描かれる。
彼は、父親がヒットラーだったらどうしよう? と考えたりする。父にナチスについて質問したりしているまでは良かったが、祖父は先住民のアポリジニーの土地を奪ったのでは、なんて質問するに及んで、さすがの父親は怒り出す、なんてこともある。
始めは、ヒットラーやナチス党、強制収容所などの説明的な記述がつづく。ナチスへの批判というスタンスを取りながら、第一次大戦後、疲弊したドイツ国民がなぜヒットラーを支持したのかなど、客観的な分析もちゃんと書かれている。そういうわけで、前半は教育的な視点が小説の範疇を逸脱しているのではないかと危惧しながら読んでいた。
でも、違った。読み進むうちに、待合所のメンバー同様、アンナのお話の続きを心待ちにするようになる。それだけアンナの創作能力が高い(もちろん作家の能力だけど)。話が佳境に入って行くに従い、こんなん、オーストラリアの一少女が知っているはずがない、思うようになる。でも、アンナはあくまでお話だと、言う。でも、自分の創作ではないという。ある人がお話だと言って、聞かせてくれたお話だと言う。
うーん、すごいよ。これを読んだら、あのヒットラーにほんとうに娘がいたような気分になる。来月はケーブルテレビで、ドイツ自らがヒトラーを描いた問題作と評判の『ヒトラー~最後の12日間~』がある。すごいタイミング。
ヒットラーのむすめ
著者 ジャッキー・フレンチ((c) Jackie French 1999)
訳者 さくまゆみこ
発行 鈴木出版、2004年12月