(1)からのつづき
さて、「Dig in nu jazz-」だが、スタートするとハード・バップを強く意識させられた。阿木譲氏は昨年7月から50s、60s初期のハード・バップで構成する「Hard Swing Bop」シリーズのDJを続けていた。それを聞き続けていたので、ヨーロッパの現代の nu jazz が半世紀以上も前のジャズに直結していることを感じて、少なからずの驚きと感動があった。「Hard Swing Bop」はかつてのモダンジャズをノスタルジックに回顧するDJではない。半世紀前のハード・バップを「今」にグルーブ・セットする阿木譲氏のDJだった。
nu jazz にハード・バップを感じることは、ハード・バップ・ムーヴメントが現在もなお、持続していることを確認することに違いない。それは半世紀前のハード・バップからも、今の nu jazz からも、とてもハッピーに見える。現在のジャズ・プレイヤーのこころにかつてのバッパーの精神性が受け継がれて生きている。ジャズ・ファンにとって、これほどハッピーなことはない。ターンテーブルのレコードは一部を除いて、ほとんど知らないアルバムばかりだった。native の『Pressian Bleu』が入っているのを終わってから知った。
ハード・バップというコアの周りを現代の文化でくるんだものが nu jazz だと、この夜感じた。もっと言うなら、現代文化を吸収したアイデンティティがサウンドを奏でている。問題はテクニックじゃなくて、アイデンティティだな、と思った。そして、nu jazz を創り出しているヨーロッパの文化的、政治的状況にぼくはあまりに疎いと気づいた。テレビのニュースを見ているぐらいでは、ヨーロッパのことをほとんど知らないのと同じだと、5時間連続に nu jazz のサウンドを浴び続ける中で感じていた。
この夜の「Dig in nu jazz-」の構成は、強烈にハード・バップを意識させるパートから始まって、ビートを効かせたクラブ・ジャズ風なパート、そして再び、ハード・バップな感性に戻って、最後はテンポをトーンダウンさせて、テンションをほぐすようなパートで終わった。
ビートを効かせたパートが延々とつづいたが、この時は少しまいった。たぶん、踊りながら聞く方が疲れないに違いない。座って聞くサウンドではない。ここはハード・バップでもファンキー・ジャズの匂いがする。さらに先祖をたどると、ゴスペルに行き着くはずだ。ゴスペルやファンキーのヒューマンな感性を引き受けながら、ビートはコンピュータ処理によって絶妙のタイミングを図って発信し続ける。そのパルスが感性を麻痺させる・・・酔い。極上のサウンド・スペースを創出する阿木譲氏のDJイング、Dig in nu jazz- な夜・・・おつかれさまです。