セルジュ・ブールギニョン監督 / シベールの日曜日

1962年フランス映画。深夜のウォーキングから帰ったところだ。公園を周回してきた。木々の梢の間に見えるシリウスの輝きが歩調に合わせて移動していた。ほとんど満月の月が天頂近くにあるので1等星の明るい星だけが見えている。オリオンはずいぶんと東に傾き、天頂近くで並んでいるのは、双子座? 西の空にはひときわ明るい星が上ってくる。春の星座、獅子座に違いない。暖かい日が続いたといえ、今夜は冷えた。マフラーと手袋がじゃまにならなかった。『シベールの日曜日』は31才のピエール(ハーディ・クリューガー)と12才の少女フランソワーズ(バトリシア・ゴッジ)が毎日曜日に大きな池のある冬枯れの公園を舞台に、二人が語らうシーンが印象的な映画だ。アンリ・ドカエのカメラが詩のようなスクリーンを作り出している。

ぼくは17、8才でこの映画を見ている。その頃に見た映画の中でも、最も印象深いものの一本として記憶し続けていたので30才台か40才台でビデオを見つけたときは狂喜した。しかし、なぜか案外につまらなくて落胆したものだ。それからさらに歳をとった今、今度は新たな感動に浸った。それがなぜなのか、真夜中の公園を歩きながら考えていた。

ピエールは戦闘機のパイロットだが撃墜され、傷は癒えているが記憶を失ったままだ。今は、看護婦のマドレーヌと暮らしている。ある日、父親に寄宿舎に預けられる少女と遭遇する。面会日の日曜日、親に捨てられたことを確信している少女と、寄宿舎に紛れ込んだビエールは修道女の早とちりで、親子として外出する。それからは日曜日ごとの二人の出会いが重なる。少女は名前のことでピエールに告白する。本当の名前は異教徒のようだということで寄宿舎ではフランソワーズと呼ばれていると。しかし、本当の名前を明かさない。

親子というには二人の振る舞いはおかしいと、人々の口にのぼるようになったころマドレーヌも事態を知ることとなる。物語は悲劇的な結末を迎えるクリスマスの夜に向かって一気に進む。その夜、ピエールと少女はいつもの公園のうち捨てられた小屋で、二人だけのクリスマスを祝う。少女はピエールに小さな小箱のプレゼントをする。中を明けて出て来た一枚の紙をひろげると、「Cybele」と大きく手書きされていた。「シベール・・・」とピエール、うなずく少女。ピエールは少女が欲しがっていた教会の屋根の風見鶏を取って、シベールの待つ公園に急ぐ。

外では、通報された警官たちが二人を捜していた。マドレーヌの部屋の電話機が鳴って、少女に駆け寄る男を射殺し、少女を救ったと知らせが入る。雪の上に横たわるピエールを見るマドレーヌとその横には、ピエールのただ一人の真の理解者だったアーティストのカルロスがいた。その中年男の顔は怒りと口惜しさで歪んでいた。警察に名前を聞かれて、少女は「名前はない、わたしは誰でもない」と答える。

深夜の公園で、この中年のアーティスト、カルロスの視点で、今回のぼくはピエールとシベールを見ていたんだという結論に達して、納得した。この理解には、10日前に読んだばかりの、スイスの作家クロード・マルタンゲが高齢で書いた絵本『ゆきのしたのなまえ』の影響がある。この絵本では、老いた主人公が二人の話題の主である男の名前を、聞きたがる孫に教えない。名前は雪の下にかくしておこう、というわけだ。なぜなのか、歳をとらなければ理解できないことだが、と祖父は孫に言う。

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カテゴリー: Movie