とてもエキサイティングな本だ。もう、ぼくたちには「明日は明日の風が吹く・・・」と慰めの言葉のない時代にいるんだと感じた。明日に何が起きても不思議ではない所で生きている。明日に起きるかもしれない「何か」は幸運ではなくて、不幸であることを内心では知っている。
歴史書を読んでエキサイティングな感慨にふけるときがある。本書もある意味、歴史書と言えるかもしれない。ただし、リアルタイムな記述という点で一般の歴史書とは大きく異なる。例えばローマ軍の兵士や織田信長の兵士は、ぼくとはまったく関係のない過去の人間だが本書を歴史書とするなら、ぼく自身がここでは下級の一兵として登場していることだ。ワーキング・プワー、あるいは負け組、あるいは下層民としての一兵だ。いやいやひがみはない。勝ち組だって、明日はどんな運命が待っているのか分からないのだから。この時代ならではのエキサイティングな感慨にふけることを喜ぶべきか。
「実際、本書で記してきたような潮流が、どういう方向へ社会を向かわせているのか、断言できる人はいないだろう。よい社会になるかもしれないし、悪くなるかもしれない。人類史上、誰も経験したことのない世界へと突き進んでいるからだ。そんな大きな転換点にいることを、(その不透明性も含めて)おもしろくも思う。」(本書「あとがき」p252)。
と言う著者に激しく同意。
世界は分散化したネットワーク状の形態に移行しつつあるが、多くの人々はこれまで、ずっと続いてきた中央集権的感性から脱皮できずにいる。で、ネットワーク的感性と中央集権的感性の乖離の中で、人々は言葉にできない、とまどいや不安、怒りを感じていることは、ぼく自身、仕事や地域社会を通して実感している。かつてなら、国家やグローバル企業レベルに生じる問題は庶民には無縁だった。今はそうでないことを実感する。ロングテールは皮肉なことに、商売では不確かなものになってしまったが、いまや生活レベルでは現実だと思う。
今迄の類書はネット社会の到来に明るい未来を見ていた。昨今はずいぶんと様変わりだ。たまたま読んだ、佐々木俊尚著『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』(2006年4月)、神保哲生・宮台真司マル激トーク・オン・デマンド3 『ネット社会の未来像』(06年1月)などと同様に本書も民主主義の将来に暗雲が立ちこめていることを予感している。
どうして・・・? ネット社会では誰もが平等に発信できるなんていうふうに未来に夢を見てたのは、ついこの間のことだよ。ロングテールは中小の事業を活性化するなんで、今でも明るく輝いているよね。実はそんなんは幻想なんだよ、って本書が解き明かしてくれる。
アマゾンとグーグルのアーキテクチャーの精度の高度化があらゆる世界を一極集中に向かわせているってわけ。アマゾン、グーグルに加えてSNSのミクシィが成功しているのは、人々に便利さ心地よさを提供しているパーソナライゼーションにあり、それが必然的に情報の一極集中を作り出しているそうだ。情報は無数にあるのに人々は一部の情報にしか接しないようなシステムができつつあると。アマゾンやグーグル、SNSのシステムに悪意が潜んでいるわけではない。歴史の歯車がきしんだ音をたてて回転している、というのはぼくの感想。
著者自身が「どちらかと言えばウェブ=ネットを深く使いこなしているほうだろう」と言っているように、本書は深くはなくてもある程度ウェブ=ネットを使っていないと、読むのは難しいと思う。最低、アマゾンとグーグルを良く使い、ミクシーの会員でなければ理解は難しいに違いない。
グーグル・アマゾン化する社会
著者 森健
発行 光文社[光文社新書269]、2006年9月