イングマール・ベルイマン監督、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の死

二人の映画監督が相次いで亡くなった。十代の一時期、この二人はぼくにとって特別な存在だった。16歳から18歳の高校生の時に二人の監督の代表作に出会った。ベルイマン監督は「野いちご」、「不良少女モニカ」、「処女の泉」。アントニオーニ監督は「情事」、「太陽はひとりぼっち」、「夜」などだ。

数日前に偶然、レーザーディスクのコレクションから「情事」を引っ張り出して見ていた。男女の微妙な心の綾を描いた、とても複雑な恋愛映画だ。ぼくもこの歳になったから理解できる。16歳の少年のぼくにいったい、何が分かったのだろう。ほとんど理解できないで見ていたに違いない。

十代のぼくは思いっきり背伸びをしていた。当時は他にもたくさんの映画を見ているが、いくら背伸びをしても、理解できない代表的な映画監督がこの二人だった。そのせいで、ぼくの心の中では、いつも二人の名前を忘れることがなかった。

20代、30代、40代と映画を見続けるがどんな難解な映画もベルイマンとアントニオーニに比べたら、ずっと分かりやすかった。ウディ・アレンの「アニー・ホール」だったと思うが、ニューヨークの映画館の前に行列ができている。インテリ風の青年たちだ。上映中の映画がベルイマンの映画と分かって、笑えるシーンだった。ぼくは青年期ではなくて、少年期にベルイマンを見ているので、ウディ・アレンのこのシーンを余裕で見ていた。

と言っても理解していなので、何の自慢にもならないのだが、ベルイマンやアントニーニの名前を出すだけで、インテリ青年と見られる時代が確かにあった。それはアメリカでもそうなんだとウディ・アレンの映画で分かったことだ。

ベイルマンとアントニオーニの映画、特に「野いちご」と「情事」を青年期に見るのと少年期に見るのとでは、随分と違うのではないかと思う。男女の心の綾は理解できなくても、女優の表情は一生、こころに焼き付いてしまった。

「野いちご」は、老教授が名誉博士の授与式の行われる都会へ、息子の嫁の運転する車で向かうが、途中、青年期の恋愛を回想するスートーリーだ。息子の嫁のイングリット・チューリンの大人の女性の美しさに、ハリウッド女優の人工的な美とはずいぶんと違うものを見ていた。

「情事」は、失踪した女友達を探す主人公が、一緒に探すうちに女友達の恋人を愛してしまうストーリー。当初は最大級の嫌悪感を抱いていた男なのに、いつしか愛の感情が生まれて来る役をモニカ・ヴィッティがけだるく演じている。

これらの女優たちの表情に、16歳の少年のぼくは甘い夢を見るようにスクリーンに釘付けになっていた。今でもはっきりと覚えている。

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カテゴリー: Movie