勝手にしやがれ / ジャン・リュック・ゴダール監督

1959年フランス映画、脚本がフランソワ・トリュフォー。最近は、フィリップ・ガレル、フランソワ・オゾン、ジャン・ピエール・リモザンといった現代のフランス映画が面白くて、意識して見るようにしていたら、かつてのヌーヴェルヴァーグ作品を無性に見たくなった。それで先日はゴダールの『女は女である』を見て感動したばかり。それに続いて今日はゴダールの長編第1作の『勝手にしやがれ』を見た。なにか恐ろしいぐらいに「今」の気分だった。

ミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は自動車泥棒の常習犯で、南仏からパリに戻る途中、白バイの警官を殺してしまう。パリに戻っても自動車を盗み続けて、行き詰まる。行き詰まるところなんか、アンソニー・ミンゲラ監督の『リプリー』に似ているのだが、この2作品は全く違う。主人公の行き詰まりを映画『リプリー』は説明しているのに対して、『勝手にしやがれ』は気分の映画だと思う。

ヌーヴェルヴァーグの気分は、50年代アメリカのジャズ、ハード・バップの気分同様、現代にぴったりと重なってるんじゃないかと感じた。『勝手にしやがれ』は何度か見ているが、前回に見てから、おそらく20年以上は経っていると思う。それなのに、今日が一番感動したみたいだ。もームチャクチャにいい映画だ。遊び人で学歴のないミシェルだがアメリカ人留学生のパトリシア(ジーン・セバーグ)に惚れている。昔に見た頃は、ボーイッシュなパトリシアのセクシーにドキドキしたものだ。

この映画を初めて見た時を、映画の一場面のように覚えている。高校を卒業してから一度も会っていなかった友人を、5、6年後にいきなり訪ねた。1960年代の後半だった。電話で教えられた住所を地図を片手に、初めての街でアパートをさがし歩いた。ドアが開くと、友人は挨拶もそこそこに、これからテレビで『勝手にしやがれ』の放映があるから、一緒に見ようと言う。拾ってきたものだという白黒テレビが押し入れにあった。押し入れの前で、友人の同棲しているパートナーと3人で見たのが最初だった。

初夏だったと思う。乾いた風が白いカーテンを揺らし、隙間から昼下がりの青空が見え隠れしていた。カーテンは美しいパートナーの長い髪に戯れるように揺れていた。3人ともが、高卒後は大学に行かず、そのときも定職を持っていなかった。『勝手にしやがれ』の気分だった。

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カテゴリー: Movie