アンソニー・ミンゲラのリプリー(The Talented Mr. Ripley)脚本書

アンソニー・ミンゲラ脚本『リプリー』が日本語訳の本になっている。この映画に対する考えをまとめたミンゲラ自身の「序文」が興味深い。この序文と本体である脚本には、撮影現場のスナップや映画のワンシーンの写真が多数収録された美しい本だ。

ぼくは昨日の映画『リプリー』の感想文でリプリーには金も才能もない、と言い切っている。ミンゲラ監督はリプリーの才能について以下のように書いている。

最終的に映画のタイトルは『The Talented Mr. Ripley(才能あるミスター・リプリー)』となったが、これはリプリーの才能に目を向けて欲しかったからにほかならない。もし、恩恵を受けている反面、それに呪われている才能がリプリーにあるとするなら、それは急に方向転換できる才能であり、手が込んでいてまことしやかな絵空事のセリフをよどみなく話せる才能である。」(p18)

これはミンゲラ監督の才能に対する逆説的な見解だ。リプリーが殺したディッキーにしても、ピーター・スミス・キングスリーにしても、彼らはここで言う才能を持っていない。というか必要がない。正統的な才能を持っているからだ。リプリーは彼らの才能にコンプレックスを抱き、ミンゲラ監督の言う所の自分の才能を使って彼らに近づき、彼らの寵愛を得ようとした。才能がなければ、寵愛を得る事もなかったが、殺す事もなかった。

ミンゲラ監督は「これは階級社会をテーマにした物語」とも言っている。50年代を舞台にしているが、テーマは極めて現代的なのだ。だからこそ、この映画を避けようとする衝動は特別な事でないような気がする。

フィクションに登場するキャラクターの中では、もっとも魅力的な欠点を持つ人物のひとりであるリプリー。その、心が乱されるような彼との共通項と、彼の身に起こることは少なくとも悪夢という形で見たことがあるという不安感が、この映画を作る意欲をかき立てた。そこにあったのは主人公への感情移入ではなく、環境に適応できない彼のような人間は、もうひとりの自分とさほどかけ離れてはいない、という認識からくる動揺であった。(p10)

ぼくがこの映画に呪縛されているように感じるのは全く同じ理由によるものに違いない。

以上で、感想文は終わるが、本書にはフェリーニ監督の『甘い生活』ファンには記憶に留めておきたい記述があった。

映画の時代設定は原作のそれより1、2年後になっているのだが、その時代考証のおかげで、イタリアの歴史の中でも重要な時代を探求する機会を得た。この時代、映画『甘い生活』に出て来るような、洗練されたモダンな人間がいたのは見せかけだけで、うわべを飾っていてももっと原始的な生活習慣を送っている人々全体を隠すことはできていない。私はどの国よりもイタリアが好きだが、その快活なメロディの奥に潜む、暗く秘められた音が聞き取れてしまう。そして、この不協和音は、見たところ快楽主義的であるが、実は今にも感情が爆発しそうな状態に寄りかかっているこの映画のストーリー自体をよく表している。(p18)

う~ん、洗練されたモダンなマストロヤンニに憧れていた身としては、とても意味深いミンゲラ監督の記述です。

リプリー――東京学参 シネマ・ノベル・シリーズ3
脚本 アンソニー・ミンゲラ
訳者 中神由紀子
発行 東京学参、2000年7月

投稿日:
カテゴリー: Movie