2001年フランス映画。フィリップ・ガレル監督の作品を見るのは初めて。フランソワ・オゾン監督もすごいと思ったけど、ガレル監督も別な感覚ですごい。二人とも、作品を覆っている緊張は半端ではなくて、見ていて酔ったような疲れに襲われるが、これは快感だ。40年以上も昔のことだが、十代の終わりにジャン=リュック・ゴダールやルイ・マル、フランソワ・トリュフォーを見た時の感慨がよみがえる。
若い映画作家フランソワ(メディ・ベラ・カセム)はジャンキーで命を絶った昔の恋人の影響から、ヘロインをテーマにしながらそれに反対する今までにない切り口の映画を企画した。その資金集めに奔走している時、街角で女優志願の学生のリュシー(ジュリア・フォール)と出会い恋をする。フランソワは資金のめどをつけて、リュシーをヒロインにクランクインする。
映画の中で、もう一つの映画がスタートする。撮影現場を対象にしているときはいいが、ときに映画のなかの映画の映像を見ていたり、映画の中の現実と非現実が重なって目眩のような感覚をあじわう。それはヒロインの変貌ぶりと重なって、ある種のリアリティを作品に与えている。だから、この作品はドキュメタリー映像を見ているような錯覚にも陥る。
リュシーは堕ちていく女を演じることに自信をなくし、不安にさいなまれていく。ある日、現場でヘロインを使って落ち着きを得た彼女は、それにのめり込み、そして映画は最悪の事態に走る。それは、フランソワにこそ最悪の事態で、フィルムはプツン、と切れるように終わる。突然、ヴァイオリンの即興演奏が響き、黒一色のクレジットタイトルのバックに流れ続ける。
本編の中ではピアノの即興が必要最低限度に挿入されるだけだった。演出も演技も音楽もぎりぎりまでに抑制されていたのが、最後の最後でヴァイオリンの調べが激情を一手に引き受ける。