溝口健二監督/噂の女

NHK衛星放送の溝口健二特集はすでに終わったが、今は深夜放送分を録画したものを鑑賞している。本作と「赤線地帯」で終わることになる。1960年代から70年代、ぼくはヨーロッパ映画に夢中な映画青年をやっていたが、その頃から見る機会の少ない溝口の名前は、ぼくの中で大きくなる一方だった。今回は11本の放映だったが、一気に見ることにした。数年前の成瀬巳喜男特集の時は録画をしたのだが、いまだに見ていないものが多い。その反省だった。今回の収穫は、長い間背負ってきた、ぼくの中の溝口神話が消えたことだ。「残菊物語」のように予想を超える大傑作にも出会えたが、本作のような紋切り型の作品もあった。

「山椒大夫」に次ぐ1954年作品。京都の郭、島原の茶屋「井筒屋」を舞台にした親子の情と郭で生きる女の悲哀を描いたもの。その茶屋のセットはさすがにすごい。ファンの久我美子主演(井筒屋の娘)ということで期待していた作品だった。ストーリーはともかく、個々のエピソードが楽しめなかった。老いらくの恋を笑う狂言を使って、女将(田中絹代)の恋をはずかしめたり、東京で高等教育を受けた娘が太夫に優しくするなんて、戦後民主主義の風潮を彷彿とさせられた。こんな型通りの思わせぶりでは、心の綾を感じることができなかった。それにしても、男たちの描かれようは、ちょっとひどい。こんな単純な男たちばかりだと、上等な作品になるはずがないと思う。

溝口健二監督/新・平家物語

NHK衛星放送で見る。1955年作品。カラー作品。新聞のテレビ番組欄にはデジタル・リマスター版とあった。今回の特集で見てきた中で初めてのカラー作品であり、きれいな状態でみることができた。作品は絢爛豪華な時代絵巻で、徹底した大衆娯楽作品となっている。平安末期の公家が没落し、武士階級が勃興する直前のややこしい時代の状況が良く分かる映画になっている。ここで、登場人物の精神性を求めても無駄だ。ひたすら、時代を活写することに情熱が向けられている。セット、衣装などのリアリティは半端でない。

庶民の集まる市のシーンから始まるが、立ち並ぶ物売りの小屋の広大なセットと庶民の雑踏には驚いた。比叡山の僧兵の集まるシーンにも驚いた。とにかく偏執狂的にこだわったであろう、監督の意思が嘘っぽさのない、すばらしいシーンを作り出したのだろう。それゆえ、飽きず、しらけず、退屈せずに最後まで見ることができた。

それに比べるなら若い清盛の市川雷蔵、清盛の正妻になる久我美子などの役者の演技は単純に元気なだけだった。むしろ、内面を表現するなどは、はなから予定になかったのかも知れない。とはいえ、清盛の母の小暮実千代は複雑な役でもあるが、影のある演技で存在感があった。ただ、ぼくは小暮よりも久我美子のファンだ。彼女のはつらつさが作品の華になっていることを否定しないが、物足りなかった。

溝口健二監督/歌麿をめぐる五人の女

NHK衛星放送でみる。1946年作品。浮世絵には関心がないので、歌麿も名前を知っているぐらい。でも、溝口の「歌麿をめぐる五人の女」には何かを期待して見たが、単なる娯楽作品の域を出るものではなくて、がっかりだった。戦時中の1942年に大作「元禄忠臣蔵」を溝口は作っている。これはビデオを持っていて数年に一度は鑑賞している好きな作品だ。そこには登場人物たちの深い内面が巧みに描写されていた。「元禄忠臣蔵」は主君に対する忠義がテーマだったが、「歌麿をめぐる五人の女」には「芸」をテーマとしつつ、終戦直後を考えるなら自由を得た精神描写を勝手に期待していた。しかし、そういう映画ではなかった。

GHQの統制のもとでの映画製作だから、制約があったはずだ。求められたのは疲弊している大衆が明るくなるような、豪華絢爛時代絵巻だったのかもしれない。実際、花魁が行列する豪華なファーストシーンには圧倒された。花魁や茶屋の女など華やか女たちや錦絵問屋の旦那や遊び人など粋な人間達の中心に歌麿がいる。それだけで、豪華絢爛なシーンの連続だ。そこに恋の駆け引きや絵師の心意気などが描かれるが、どれも紋切り型な印象に終わってしまい、深くこころに届くものがなかった。

歌麿をめぐる女の中でも、田中絹代が演じる水茶屋の女が最重要人物で、最後に彼女は情痴沙汰まで起こしてしまう。溝口作品では常に田中絹代の演技が高く評価されているが、ぼくには彼女の演技がどの作品においても違和感を覚えている。特に本作品の情痴沙汰にまでいたる情念が彼女の演技からは伝わってこない。

ひょっとしたら、溝口作品においては田中絹代一人が日本的情感を一人で背負っているのかもしれないと思いはじめた。「祇園の姉妹」(1936年)の山田五十鈴、「雪夫人絵図」(1950年)の小暮実千代、「祇園囃子」(1953年)の若尾文子、そして「近松物語」(1954年)の香川京子たちが演じるヒロインたちは日本的情感を捨てる葛藤が描かれている。その精神性が溝口映画を輝かせている。しかし、田中絹代一人はいつも日本的情感を捨てることとは無縁な女として描かれているように思える。ここのところが、他の女優に比べて田中絹代が、にがてな理由なのかもしれない。

溝口健二監督/山椒大夫

NHK衛星放送で見る。1954年作品。平安時代末、人買いにさらわれた安寿と厨子王の物語。1954年といえば、ぼくは9才。当時、家にある絵本といえば、この「安寿と厨子王丸」とか「一休さん」、「いなばの白ウサギ」みたいなつまらないものしかなかった。ぼくはとりわけ「安寿と厨子王丸」が嫌いだったが、これは当時はまだ盛んだった紙芝居でも定番で、好きでもないのによく覚えてしまった物語だ。遊んでいて夕方、暗くなると「人買いがくるよ!」なんて叱られていた時代だ。

今回はこの映画によって、安寿と厨子王が買われた先が、右大臣の荘園の一つであること、山椒大夫は買われた先の一荘園の管理人であることなど、歴史の勉強ができた。いわば日本における奴隷制度の時代で、安寿は運命に糸に操られるようにして、出世し、荘園の奴隷解放を果たす。見ているこちらが、ちょっと気恥ずかしくなる。ぼくは意識していないが、最近は何かとやり玉にあげられる戦後民主主義教育で育っている。しかし、育った当人のぼくには戦後民主主義教育って、よく分からない。この映画の荘園奴隷解放のシーンを見ていて、あ、これが戦後民主主義かと思った。

最後は一家で生き残った二人だけ、母と厨子王の劇的な再会で終わる。誰もが知っている物語での観客動員を狙った単なる娯楽作品とは思えない、熱の入った作品だ。映画をアートにする渾身の情熱が監督以下のスタッフが傾むけているようだ。事実、この作品はベネチア映画祭銀獅子賞を受賞する。はっとするほどの美しいシーンもある。しかし、製作の意図が伝わってこない。

溝口健二監督/祇園の姉妹

NHK衛星放送で見る。1936年作品。一緒に暮らし、祇園で芸者をやっている姉妹の話だ。いつまでもしがない自前芸者である姉のことを、妹ははがゆくてしかたがない。しっかり者で次々と男達を手玉に取る妹を山田五十鈴が憎たらしいほど、好演している。しかし、この頃の山田五十鈴なら成瀬巳喜男監督の「鶴八鶴次郎」(1938)の方が好きだ。そこではプロの三味線弾きを演じていた。

こんなもんかいな・・・とあきれる程、京都の大店の旦那衆が若い芸者に手玉に取られていく、ちょっと不自然だよ、と言いたくもなる。姉は情にもろくて、何事もわりきる妹に「それは世間で通らない・・・」といつも、いつも、さとすのだが、もちろん妹は聞く耳を持たない。芸者という、職業そのものの理不尽を意識しつつも、その中で生きていくしかないのなら、男を踏み台にすると意を決する。しかし、映画の幕切れは、それが負け犬の遠吠えのように見える。世間をものともせず、たくましく、前へ進む妹の姿で終わってほしかった。

溝口健二監督/祇園囃子

NHK衛星放送で見る。1953年作品。これまでに見て来た、雨月物語(1953)、雪夫人絵図(1950)、近松物語(1954)に比べるならインパクトに欠ける作品だと思った。これらの3作品には「戦後」という情念ともいえる熱いものを感じたが、本作品では感じることがなかった。芸者美代春と舞妓の栄子の二人は血のつながりもないのに、姉妹のように仲良く。明日に向かって生きていくという人情話にしか見えないのが残念だった。

しかし、映画作りにかける情念は目立った。とりわけ、若尾文子演じる舞妓のお披露目の日のシーンには感動した。芸者の小暮実千代と若い舞妓の若尾文子は二人の男衆に先導されての挨拶まわりのシーンだ。4人は祇園の町を、まさに、駆け抜ける。小走りする二人の美しさ、町行く人からのお祝いのことばを含めて、4人が巻き起こす喧噪をカメラの長まわしがスピード溢れる臨場感で描ききる。ラストも良かった。小暮と若尾の二人が祇園を歩くシーンだ。これはもう、日本的叙情の湿ったカメラではなくて、ぼくが若い頃に慣れ親しんだフランスのトリフォーやゴダールのヌーベルヴァーグそのものだった。溝口から影響を受けたトリフォーやゴダールのフィルムをぼくは見ていたんだ。

溝口健二監督/近松物語

NHK衛星放送の溝口特集を見る。1954年の作品。単なる悲恋物語なのだが、ただならないテンションの高さを感じてしまった。監督はもちろんだが、役者をはじめ、小道具や衣装にいたるまで、憑かれたような気配を感じてしまう。「雨月物語」、「雪夫人絵図」そして「近松物語」と3本の溝口作品を見続けて、戦争が溝口作品を生み出しているということを強く感じた。
封建時代の二人の恋を通して、おいえ(家)のために生きるか個人のアイデンティティを取って、死の道を選ぶのかを問うている。とりもなおさず、国家のために死ななければならなかった、わずか数年前の心情が息づいている。監督にも、役者にも制作者全員に。さらには、当時の観客にも息づいていたに違いない。

現在では、溝口は黒沢や小津に比べて関心を集める度合いが低いという。それは溝口作品が終戦直後の高度な大衆娯楽映画だったからに違いないと思う。溝口作品は観客にもテンションを強いた。そんなテンションに応えることのできる時代はあの頃しかない。

主役の香川京子の美しさといったらない。ヘアデザインと裾の長い着物のバランス。そのバランスからこれしかないと思える立ち居振る舞いがとても美しい。若い女中役の南田洋子が印象に残る。

溝口健二監督/雪夫人絵図

深夜、NHK衛星放送で「雪夫人絵図」を見た。戦後5年後の1950年作品。戦争が語られることはないが、いやでも戦後の物語であることを意識させられる。主人公は旧華族の家に生まれ育った雪、彼女の没落が描かれる。戦後の変革の中での没落を雪夫人の精神と肉体の相克を通して描いている。戦後の大衆社会がこの映画と原作である船橋聖一の同名小説に快感をおぼえたとしたら、しかたがないとはいえ残酷な時代だったんだと思ってしまった。本作品は今回が初めての鑑賞だが、ぼくの中では、溝口は芸術映画の巨匠から大衆映画の巨匠とへと認識が変わっていくようだ。

主人公の雪は小暮実千代だが、ぼくがこの時代の女優で好きなのは久我美子。ここでは重要な役の若い女中を演じていた。若々しくてとても良かった。

溝口健二監督/雨月物語

NHK衛星放送で溝口健二監督特集を放映している。さっき、「雨月物語」(1953年)を見た。若い時は、ベルイマンとかヴィスコンティの映画のように溝口を見ていたんだ、と今、気づいた。つまり、なーにも分かってなかったんじゃないか、てなことが分かった。はっきり言って、見ていて、苦しかった。京マチ子が出てくるシーンはもう、ほんと美しいんだけど、気持ちは苦しかった。でも、あの舞いのシーンは凄すぎる。
たぶん、最近は意識して、太平洋戦争時代の記録映画などを見ているので、その影響があるかも。両方とも、見終わった後は息苦しい。

実は、「雪夫人絵図」が始まっている。

ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ/アンダルシアの犬

1146646195ぼくにとって、鑑賞回数の一番多い映画はおそらく「アンダルシアの犬」だと思う。一時期、映画青年の主宰する映画研究会などを見つけると、足しげく通ったものだ。それらは、公民館や大学の一室での上映会なのだが、記憶に残るのはどれもこれも古びた建物だった。クーラーの普及していない昔の事だ。開け放した窓からの風が、黒い遮光カーテンを揺らせて一瞬差し込む夏の光が、部屋に充満するタバコの紫煙で光の帯になって、無言の若い鑑賞者たちを照らし出す。16ミリ映写機のカタカタと鳴る音と汗とほこりに匂い・・・。これがぼくの「アンダルシアの犬」のイメージだ。
今、ぼくは Intel iMac 20インチ画面に、QuickTime Player 7.0.4 を使って「アンダルシアの犬」を映している。