La Fiesta 134 / 08.2.11 日野晃のドラム・ソロ

1時間のドロム・ソロを演ると予告していた。ぼくは実際に計っていないから何十分を経過した頃か分からないが、プレイが山場を迎えていたのだろう。ぼくはドラムのサウンドに溶け込こんでいた。そして、たまらずに叫んだ。ちょうど演奏が終わるタイミングだった。

最初に司会者がタイトルの「祭り」が示すように、踊っても歓声をあげてもかまいません、と言っていた。さすがに踊る人はいなかったが歓声がたびたびあがっていた。ぼくはなにげに遠慮していたが、最後の最後に押さえきれずに声を出した。イってしまった。日常に戻るにはしんどいだろうと心配になった。夜通し飲みなたくなるような気分だった。実際はそうもいかない。コンサート翌日は仕事をサボるわけにもいかず、案の定、仕事はとてもしんどかった。

凝った演出だった。「さくらさくら」を会場を埋めた500人の合唱から始まった。何度か繰り返して、照明が落とされてからさらに2回繰り返した。合唱が終わりかけた時、闇の中でドラムの第1音が響いた。背筋を電流が走ったみたいだった。そして目頭が熱くなった。

会場で配られたフライヤーに25年前にスティックを置いたと書いてあった。80年代の前半だ。記録がないので定かでないが、その最後か、少なくとも最後の頃の演奏を聞いている。日野氏を初めて聞いたのは70年代の始めで、知人のサックス奏者の演奏を心斎橋のジャズ喫茶に聞きに行った時だ。それ以来、大阪や京都で行われる演奏を10年間追っかけた。このコンサートのドラムの第1音はその10年間に聞いたどの音よりも鋭く、まるで日本刀の切っ先から放たれたような音だった。

その第1音は阿部薫と重なった。70年代は大阪と京都の阿部薫も追っかけていたが、70年頃に初めて聞いた京大西部講堂でのライブからだった。その夜のフリージャズ・コンサートで阿部はどちらかというと前座のようだった。全く知らないアルトサックス奏者だったが、その最初の音はぼくの感性をつらぬいて、疾走した。遠くへ走り去ったその音を追いかけるようにして阿部を聞き続けることになった。その約40年前の阿倍の最初の瞬間を忘れていない。「La Fiesta 134」の日野晃の最初の音も忘れないだろう。

78年に死去した阿部薫のその1ヵ月前の最後の演奏である北海道ツアーに共演したのが日野晃だった。延々と続くドラムソロを聞いていると、コルトレーンや阿部の長い長いソロが重なった。60年代から70年代のフリー・ジャズプレイヤーはジャズを演りながら、ジャズを越えようとしていたのかも知れないと、La Fiesta 134の日野晃を聞きながら思った。エリック・ドルフィーもジョン・コルトレーンも、そして阿部薫も答えを出す前に死んでしまったのかもしれない。このコンサートの日野晃のプレイはジャズを越えていた。これが日野晃の70年代への決着なのだと思った。

日野氏はコンサートの公式サイトに書いている。

60歳。
30代の時、スティックを置かざるを得なくなったその場に、スティックを拾いに行ってやる!
但し、一人で!
武道は音を鋭く鋭く、深くしてくれた。
私が置いてきた場、残してきた仲間たち。
背中にいる仲間たち。
そのおとしまえをつけてやる!

ステックを拾った現場を目撃できて良かった。スティックを置いてから日野氏とは会うこともなくなり長い年月が経った。その間に日野氏は武道家として名をなし、コンテンポラリーダンスのウィリアム・フォーサイスに招聘されてヨーロッパでダンサーへのワークショップを開催するまでになった。大勢の若い弟子たちがスタッフとしてきびきびと働き、彼らの輪の中に日野氏がいる。美しい光景で、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

「La Fiesta 134」は日野氏の年齢と第2部で登場するピアニスト田中武久氏の年齢を合わせたものだという。ベースの宮野友巴氏も入ったピアノトリオはドラム・ソロでの上りつめたテンションを冷ます美しいプレイだった。

《追記 2008.2.27》
2月24日の東京での公演があって「La Fiesta 134」は本当に終わった。氏のブログでその感想を読むことができる。「落とし前はついた」だ。
ぼくは2月11日の大阪公演後、すぐには現実生活に戻れないという、しんどい気分を引きずっていた。あの日の演奏はとても短く感じられ、1時間だったということは今も信じられない。これまでに体験したことのない、すごく凝縮された音楽の時間を過ごしていたのだと思う。

ぼくは60年代から70年代、魂をこめた生演奏を求めてフリージャズを聞いていた。それが70年代も後半にさしかかると、時代の流れは魂よりも頭で演奏するフリージャズになっていったと思う。日野明(当時の名前)はそのなかにあって魂で演奏するミュージシャンとして孤軍奮闘していたように思う。しかし日野明はスティックを置き、ぼくは魂のプレイを当時のパンクロックに求めていった。

ぼくはプレイヤーでないので、好みの音楽ジャンル簡単に変えることができる。しかし、どこかに後味の悪い気分を持ち続けていた。今回の日野晃のドラムソロはあの70年代と今をつなげてくれた。もちろん、魂をこめた演奏などというものでなくて、さらに次元を越えたプレイだったからいえることだ。そんな今回のドラムソロがあったから、ぼくにとっては、70年代にフリージャズを聞いていたことが意味のあることになった。もし、今回のドラムソロに出会うことがなかったら、ぼくの70年代のフリージャズ体験はいつまでも宙ぶらりんの状態だったに違いない。

ぼくにとってこんなに大切な公演を知ったのはわずか3日前の偶然だった。すぐにチケットの予約を入れて聞くことができた。今は、このネット社会で起こった偶然が本当にありがたいと思っている。

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カテゴリー: Music