1952年作品。放映の有無も不確かだが、今回のNHK衛星放送での溝口健二特集では見なかった作品。20年前にNHKで放映された録画ビデオを鑑賞した。10本余りの溝口作品を集中して見た後だが、本作品は1939年の「残菊物語」、53年「雨月物語」、54年「近松物語」、56年「赤線地帯」と並ぶ傑作に違いない。いや、ぼくの中でそれらを抜きん出た大傑作とも思う。天才的な集中力が集まった、まれにみる作品ではないだろうか。
全編を通して、これ以上はない、と言うぐらいの画面の構成美に見とれた。ヌーベル・ヴァーグ作品に心酔して映画館通いをしていたのは、ぼくが10代後半から20才代の頃。「西鶴一代女」の映像美はヌーヴェル・ヴァーグの原風景を見る思いだった。京の寺社風景をフレームに納めながら、日本的な情念を突き抜けた、冷徹な美を生み出している。このカメラが、女が堕ちていくだけという情念とのストーリとの間で絶妙なバランス生み、作品を優れたものにしている。
もう一つ、ここでの田中絹代の演技が光る。抑制の効いたけだるい演技がすごい。全編を通してのゆったりとした仕草にまどろっこしさを感じないのは、作品を貫くテンションが非常に高いからだと思う。ぼくは他の溝口作品における田中絹代は演技が過剰であまり好きでないのだが、本作品ではほんとうにすごい。
先日の朝日新聞で、ヨーロッパのビクトル・エリセ監督が若い時に見た「山椒大夫」のことを書いていた。特にラスト・シーンの美しさを絶賛していた。そのラストは息子の厨子王丸が母と再会するという幸福に包まれたものだった。本作品でも、母が息子に会うシーンが2度ある。2度とも母は息子に声を掛けることはできなかった。どうして、映像作家が「西鶴一代女」の幸福が否定された再会よりも、「山椒大夫」の紋切り型の幸福な再会を選んだのだろう。前者の再会は後者よりも10倍も100倍も、社会とか人生を考える契機を与えてくれているというのに。