クラブカルチャーがぎっしりと凝縮されている。本から官能的な匂いが発散しているようでクラクラしてしまった。たかが270ページの本なのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。丹念に読んだわけではない。飛ばす所は飛ばしているのに、中味が濃いせいか速読できなかった。
ディスコからクラブ時代へ、そしてクラブの成熟(=終焉)を世界のクラブ事情とともに著者自身の体験とともに語られる。単に体験談だけでないところがすごい。たとえば、イビサやシンガポールのクラブシーンを語る時、それらの都市の歴史、その歴史に育まれて成長した市民の精神性が語られ、著者の肉体がその街(クラブ)と同一化するエクスタシーが書かれる、といった風の内容だ。
本書には世界各地のクラブ、DJ、サウンドなどの変遷が具体的に克明に書かれている。著者が体験する以前のクラブの発生にも多くのページをさいて言及している。クラブカルチャーに関する資料的にも価値の高い本であることは間違いないと思うが、本書の目的はクラブカルチャー史ではない。
クラブ体験は、現代の高度消費社会では誰もが簡単に手に入れられるように思えるが、踊る自分の心理状態や体調、DJの調子、クラブの音響や客の雰囲気、究極には時代背景などがすべてうまい具合に化学反応した時に、初めて爆発的な感動がもたらされるものなのだ。そのように希少で特権的な経験であると、この本の中でも繰り返しのべてきた(p257)
ここでいうところの「爆発的な感動」の痕跡を本のカタチで残す試みだと思う。クラブ文化の事実を積み重ねるだけ、積み重ねて、その先にある「爆発的な感動」、その一端でも読者に伝えることができるのか実験をしているように思える。これは半端な情熱では書けないと思う。その情熱にひたすら敬服しながら読んだ。
ちなみにぼくは1970年代のディスコを少しだけ体験している。クラブは知っているとはいえない。特に本書で言及する四打ちの大バコは全く知らない。意識的に音楽を聞き始めるのがモダンジャズだった。ほどなくして、ビートを破壊したフリージャズに傾倒していったので、「踊る」という感性を眠らせたまま音楽を聞いていた。一般的に日本人は見た目はもちろん、こころまでもが鋳型に入れられたように成長する。そのせいで身体を固く閉ざして聞くフリージャズは案外、似合ったいたのかもしれない。
時には、身体を固くして全エネルギーを脳内の集中するときエクスタシーを感じるライブ体験もあった。パンクロックでも忘れられないギグのいくつかがある。そのおかげで、本書が言及する官能を全く分からないわけではない。しかし、踊ることがなければ分かったと言えない。
本書のスタンスではクラブカルチャーは終焉している。成熟期に入り、発達が静止したという意味の終焉。これからのクラブは二極分化していくという。一方は祝祭的空間のディスコ時代の流れを引き取った本流のクラブ。他方は、DJ、エレクトリックミュージックにおいて実験的な、より進化した表現の場としてのクラブ。と著者は言っている。ぼくの趣味は後者。出会える機会を求めたい。
クラブカルチャー!
著者 湯山玲子
発行 毎日新聞社、2005年9月