宮台真司著『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

ゴーギャンの印象的な絵がカバーに使われている宮台真司の『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(2014年刊)だが、いまぼくの愛読書だ。もっとも愛読書はコロコロ変わるが今は本書だ。その前に、いまぼくは猛烈に忙しい。でも元気だと、メールの返信が滞ってる友だちたちに伝えたい。ここへきて仕事の依頼が増えてる上に、家事や介護はこれまで通りにこなしてる。そのうえ、歯医者にも何度も通ってる。この際、虫歯は全部治すつもりだ。

本書は最初、電子本で購入して読んでいたが詳細な注釈を読むには紙版の本が欲しくなり、定価1800円なのに、3,000円の中古本を買った。しかしそのかいがあった。なぜなら、90年代からの不景気で、ぼくの失われた10年間の風景が本書から見えてくるからだ。宮台さんはぼくより一回り年下。90年代から今も活躍している社会学者。教えられることが多い。実際、本書は社会学ごりごりの内容なのに、まえがきでテクノのクラフトワークのライブへ行った話し。そして90年代はディスコからクラブへ変化した意味を解説している。ディスコは “非日常” を享受できる場だが、クラブは “日常” の場だと言う。

「92年から96年の間に、ストリートという『解放区』が出現します。その5年間に一貫して上昇したのが、第一にルーズソックスであり、第二にブルセラ&援助交際であり、第三にクラブブームです。」(p55)
90年代は不景気から仕事が激減しながらも、借金返済のためにぼくは必死に働いていたので、90年代カルチャーを全く知らずに過ごした。これがぼくの失われた10年だ。特に90年代のクラブについて本書から知ることが大きい。

ぼくは1980年前後のディスコと2007年以降去年までのクラブ遊びをしているが、非日常と日常の対比は肌で感じていた。でも、このように文字で読むのは初めてでとても感動した。ディスコへはそれほど積極的に通ったわけでない。誘われるから行っていたが、行くとなると黒の革靴にジーパン、黒っぽいジャケットをはおって、ブランドものの細身のネクタイを締めるという、一応のおしゃれをして出かけた。一方、クラブはヨレヨレのジーパンとTシャツで行けることが気楽だった。ぼくにとってクラブはファッションの相違以上に精神的に日常的空間だった。だから毎週末になると通い、それが十数年間続いた。

コロナ禍の今、クラブシーンを記憶の中で再現して楽しんでいるが、この記事を書くにあたり、ディスコシーンについて「松岡正剛の千夜千冊」から「高橋透 DJバカ一代」をネットで再読した。この記事には同世代の松岡さんが体験した70年代、80年代の東京のディスコシーンが詳しく書かれている。ぼくはこれら東京のディスコへ遊びに行ったことはない。遊んでいた地元大阪のディスコはそれほど大きくなく、アート的にも特に記憶にとどめるものはなかった。ディスコシーンが非日常であることは千夜千冊から知るわけだ。

2007年にクラブで遊びを始めてしばらくして、ぼくは、フロアーでとりわけずば抜けた女子ダンサーたちが何人かいることを知った。ダンスの技巧ではなくて、音楽とのシンクロが絶妙といったらいいかな。歳からいったら、高校生の頃から90年代のはじまったばかりのクラブシーンから踊り始めたようだ。そんな彼女たちに気づくとぼくは近くに行って、それとなくダンスを眺めた。無視する女子もいたが、たいていはにっこりして握手してくれた。次に会ったときはハグしてくれる女子もいた。
その体の動きはグルーブにからみつくように舞うので、まるで音楽とセックスしているようだった。彼女たちは90年代の初期クラブシーンの “日常” が誕生させたダンサーたちだと、ぼくは思っている。クラブから遠のいた今、無性に彼女たちのダンスを見たいが、コロナ以前から徐々にフロアから消えていた。ぼくはかろうじて、彼女たちを通してクラブシーンの “日常” を垣間見ていたのかもしれない。