別冊太陽 日本のこころ119 中上健次

いまさら中上健次を読み始めた。中上の小説は泥臭いと思って読まないできた。ぼくは若い時からおしゃれな恋愛小説が好きだった。フランスの翻訳小説とか、日本の作家なら谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などの耽美的なやつが好きだった。でも、中上は同い年だし、大学行ってないし、肉体労働やってたし、ジャズ喫茶でジャズを聞いてたし、学生でもないのにゼンガクレンのデモに混じったりと共通する部分が多いのでずっと気になっていた。

今はまだ初期の短編や中編を読んでいるところで代表作の『枯木灘』は読んでいないが、中上のとてつもない凄みに圧倒されて興奮している。そんなときにこの別冊太陽を目にした。ぺらぺらとページをめくっていると、彼の作品世界を俯瞰しているようで都合がよい。

本書にはエッセイ『角材の世代の不幸』(『新潮』1968年11月号)が収録されている。当時のデモはゲバ棒と呼ぶ角材を手にすることが多かった。エッセイは敗戦後すぐに生まれた世代のことを22才の中上が書いている。

この世代は小中学校と、平和と民主主義のデマゴーグたる教師たちから新生民主日本のイメージを吹き込まれたと中上は書いている。そして続けて「やっと少年期から出るころにあたって少年期を支えていた民主主義が破産を宣告されている、どうもおかしいと感づきはじめた世代なのである。裏切られた少年期をもつ哀しき世代、としか表現できないように思う。」と、自らの世代を書いた後に、衝撃的な文が続く。

「人は、少年期をでるにあたって、自分の通ってきた少年期が贋ものであると自覚するひとりの若者の内にいだく苦にがしさと混乱を想像することができるだろうか?」

凄いな、凄いとしかいいようがない。中上は「苦にがしさと混乱」を創作によって解決しようとしていたのだと思う。ぼくはそれを忘れただけで、解決なんてできやしない。いや、中上を読んで思い出しただけでも幸運かも。しかし、少年期が贋ものと再び自覚することになったのが3.11なんだよな。3.11がなければ、中上を読んでいないような気がする。