財産を持ち、働く必要のない裕福な青年コランはオシャレな日々を過ごしている。ある日、無理矢理誘われた、幼なじみのイジスの豪華なパーティで、美しいクロエと出会う。原作では、イジスがクロエを紹介する。そのとたん、コランは「あなたはデューク・エリントンに編曲されましたか」とクロエにたずねる。
岡崎版には初対面シーンにこの質問がない。パーティ会場で、美しい娘クロエに釘付けになるコラン。コランの視線を感じて、ゆっくりと振り向くクロエ。ここでは会話が意図的に省かれている。
原作のボリス・ヴィアンの小説を読んでいる者は、コランの方に振り向くクロエに「デューク・エリントンに編曲された娘」を感じるはず。小説では、ちょっと意味不明だったこの言葉が、岡崎京子の絵に出会って、ストンと理解された。ここは、ムチャクチャに素晴らしい岡崎のクロエだ。
コランとクロエはすぐに結婚する。本書は超豪華な結婚式を挙げたクロエが超極貧の葬儀で、共同墓地に捨てられるように埋葬されるまでの物語だ。裕福、優雅、贅沢、虚飾が象徴のジャズがスイング・ジャズ。スイング・ジャズの象徴的なエリントン・ナンバーがオシャレに響く前半から、物語は貧困階層のジャズ、ビバップの疾走感に酔うように終局に向かって堕ちていく。
原作にも岡崎版にもビバップの言葉は出てこない。しかし、原作が書かれた1940年代に登場したビバップをBGMにするこのなしに、この物語の後半を楽しむことはできない。虚飾のスイング・ジャズに比べて、ジャズの純粋を追求したのがビバップ。ビバップは痛い。ヴィアンの小説も痛い。岡崎京子のコミックはさらに痛い。