フラット革命 / 佐々木俊尚著

フラット革命著者の本は今まで5冊読んでいる。ウェブの現状を知るためだ。現場を取材し、記事を書くという著者のスタンスは具体的で分かりやすい。でも、著者の導きだす結論をいつも納得しているわけではない。本書も今までに読んだものと変わらないが、ちょっと力の入れ具合が違っている。本書はけっこう激しい。で、一気に読んでしまった。

ぼくはものごころがついた頃から新聞があった。だから、家を出てからも新聞は当然のように定期購読していた。それなのに、約1年前に新聞の購読を辞めた。思い立って、いきなり辞めたのではなく、数年前からちょっとおかしいと感じ始め、読むと不愉快な思いをしながらも購読を続けていた。何十年も続いた習慣を簡単には変えられない。それに、一時は4紙を定期購読するほどに新聞が好きだった。だから簡単には辞められない。そんな優柔不断に決着をつけて辞めたわけだが、辞めて非常にすっきりとした。読んで不愉快になる習慣がなくなったのだから。でも、なぜ新聞を読むと不愉快になるのか、理由を考えるまでにはいたらなかった。

本書にその理由の説明があった。

それは〈われわれ〉の喪失である。
日本は1990年半ばまで、「総中流」という言葉で象徴されるような等質社会だと信じられていた。それが現実のリアルな姿だったかどうかは別にしても、少なくとも多くの日本人たちは「自分たちは等質な社会の中に生きている」と信じ込んでいた。あるいはマスメディアによって、そう信じさせられていた。
企業に勤めるサラリーマンがごく平凡な人生で、専業主婦の妻と子供二人で社宅に住み、三十代になるころには持ち家を建てる――という生き方が、「標準家庭」モデルとして提示された。
ところがこの高度成長モデルは1990年代、終身雇用制の崩壊と不況、グローバリズムの波をものにかぶって、あっけなく崩壊した。いまや〈正社員-非正規社員〉〈専業主婦-働く女性〉〈ニューリッチ-下流社会〉とさまざまな分断が社会に出現し、日本の社会からは等質性が失われつつある。
しかしながら、日本のマスコミは、その社会的枠組みの変化に対応できていない。マスメディアは昔も今も、記事の拠って立つ場所を総中流社会全体に求めている。つまりは日本人である〈われわれ〉という立ち位置から、記事を書いてきたのである。(p64-65)

多くの新聞記事に主語は書かれていない。主語は省かれているが、〈わたし〉ではなくて〈われわれ〉と佐々木氏は指摘している。新聞を読んで違和感を持たなかった頃はぼくもまた、この〈われわれ〉の中に収まっていたからに違いない。というか、〈われわれ〉の一員であるとき、記事の主語なんか気にならなかった。記事の主語を気になり出した頃、ぼくは新聞社の想定する〈われわれ〉から外れ始めていたに違いない。

日本の「戦後社会」と呼ばれる枠組みは、2000年代前半に完全に終焉を迎えた。
同調圧力が強く、頑固な殻で守られてきた日本の共同体は崩壊に向かい、〈われわれ〉という共同幻想も消えてなくなった。そしてのこの〈われわれ〉の消失は、膨大な数の人々を共同体から切り離し、社会の中へと浮遊させる効果をもたらした。
古い共同体は破壊されたにもかかわらず、新しい共同体はいまだにどこにも見えてきていない。
かつての日本の共同体、たとえば日本企業のような戦後社会を象徴する共同体は、人々に安心をもたらすのと同時に、そこに息苦しい隷従の関係性を持ち込んでいた。日本の古い共同体には、安心と隷従という裏表があり、その二つを切り離すことは不可能だったのである。だからこそ人々は戦後社会を覆ってきた〈われわれ〉にたまらない息苦しさと隷従を感じ、そこから抜け出したいと願ってきた。その願いは、戦後の文学や映画、音楽などいたるところで自己表現のモチーフとなっている。
一方で、この息苦しい〈われわれ〉が、人々に安心を与えてきたのも事実だった。(p80)

この辺りのことは痛いほど分かる。ぼくの父は。戦後にサラリーマンとなり日本の高度成長を通じて一貫して会社人間を通した。社宅生活も経験した。そんな生活をぼくは会社というよりも江戸時代の「藩」のようだと思って見ていた。

父は生き生きと仕事をしていたと思う。たぶん、誰が見てもそう思う程、出世の階段を上っていた。だから、隷従を意識していたのかどうかは分からない。でも、ぼくは強く感じていた。そのためにホワイトカラーにはなりたくないと少年の頃から思い始めていた。

こんな風に、戦後に生まれたぼくが生活を通して感じていたことが、本書ではリアルな言葉で表現されている。なので、夢中で読んでしまった。

講談社、2007年8月発行

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