1960年イタリア・フランス映画。アントニオーニ監督は「情事」(1959年)、「夜」(61年)、「太陽はひとりぼっち」(61年)の3部作が特に有名だ。3作に共通しているのは、ヒロイン一人が主人公で相手役の男優は添え物という位置にあること。「情事」のガブリエル・フェルゼッティ、「夜」のマルチェロ・マストロヤンニ、「太陽はひとりぼっち」のアラン・ドロンはみんな軽い、とても軽い男の役だ。ヒロインは、「夜」がジャンヌ・モローで、あとの2作はモニカ・ヴィッティ。「夜」のジャンヌ・モローと「太陽はひとりぼっち」のモニカ・ヴィッティが抜群にいい。これらに比べるなら、「情事」は後の2作品のための習作のような印象を受ける。モニカ・ヴィッティの演技も焦点が定まっていない。ところが、「夜」でジャンヌ・モローと共演したモニカ・ヴィッティは、「太陽はひとりぼっち」でジャンヌ・モローばりの演技で見る者を圧倒する。この3部作におけるジャンヌ・モローの存在感が際立っている。
妻のジャンヌ・モローは資産家の娘。夫のマストロヤンニは将来を嘱望されている新進作家。二人は癌で闘病中の友人の見舞いで病院と訪ねるところから映画は始まる。後で分かることだが、共通の友人というものの妻の方が先に付き合いがあったらしい。後から知った夫に恋をして結婚したわけだが、妻は真に自分を理解しているのは、夫ではなくて、友人の方であることを知り悩む一日が映画になっている。
死期の近い友人に対して、いたたまれずに病室を去る妻。その後、夫の新著のサイン会のある書店へ同行するものの、あてどなく街をさまよう。男は若い女性の知性に惚れて、その知性に力を貸すことに喜びを感じる。それが恋愛に発展するケースもあるが、ときとして、男は恋愛に至ることを激しく遮断する。知性に惚れたことへの裏切り行為として恋愛を許せないのだ。もちろん、このことは男一人の内部で進行する事態で若い女性に察知されることはない。
病室の友人と妻は、かつて、そうした関係の恋愛に至らないケースだった。その夜、富豪のパーティに出席した二人だが、妻は病院に電話を入れて、友人がたった今、死去したことを知る。そして、友人が自分への愛を遮断していたことを感じて悔やむ。その渦中、夫は富豪の令嬢の尻を追いかけている。夫もまたインテリな若い女性を好む男だ。この令嬢役がモニカ・ヴィッティ。ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティ、マストロヤンニの3人による贅沢な恋愛映画だ。とはいえ、真の恋愛は、死んだ友人と妻の間にあるだけ。フィルムに描写されるのはゲームのような恋愛という映画だ。
新進作家である夫の知性も、若い女性の魅力も、ジャンヌ・モローの演じる妻の知性の前には儚げに見えてくる。そういう演技をしているジャンヌ・モローの印象がいつまでも強く残る映画。