Web労働者は電気羊の夢を見るか?

8月25日は大阪中央区南本町の jaz’ room nu things のイベント「afrontier presents … JAZZ INTO THE HEAVEN」へ行って来た。DJタイムをはさんで、native と Black Beans Quintet のライブ演奏があった。native はもう何度もここで聞いているお気に入りのバンド。いつもオリジナルナンバーで突っ走るのが心地よい。ハードバップのオリジナルナンバーはやらないけれど、ぼくはnativeに今のハードバップを感じている。

そのnativeに続いて登場するのが、nu things は初めての Black Beans Quintet。nativeの後だし、ハードバップも中心だとフライヤーに紹介されている。期待するなというのが無理。フロアーも、テーブルと椅子の配置されたジャズ・クラブのスタイル。ここはじっくりと聞かせるハードバップだと予想するのが自然。ところが、なんかクラブ・ジャズっぽい。最初は、フロアの最前列でミュージシャンを目の前に身体を揺すってたけど、なんか、音が固い。結局、椅子に戻ったり、またフロアーに戻ったりと中途半端なことをやってたけど、こんなんだったらテーブルなど置かずにスタンディングの方が落ち着くと思った。クラブジャズならそうと始めから告知して欲しかった。いや、それに気づかないぼくが時代遅れか。

そんなこんなで、ハードバップって何、と考えてしまった。

デヴィッド H. ローゼンタール著(後藤誠訳)『ハード・バップ――モダン・ジャズ黄金時代の光と影』にこんな記述がある。

「ハード・バップの魅力は、その豊かな表現力にあった。もの哀しく苦悩に満ちた演奏を聴いても、聞き手の気持ちをいつもさわやかにしてくれた。ジェームス・ブラウンが不良らしさの象徴だったのと同じように、ハード・バップもまた不良らしさの象徴であった。」(p115)

ぼくがハードバップに求めるサウンドはもうこの文章につきる。
それにしても、なぜリズム&ブルースではなくて、ハードバップなのだろう。

クリント・イーストウッド監督の映画『バード』では、主人公のチャーリー・パーカー(バード)がメロメロになった身体をひきづりながら、街をさまよいニカ男爵夫人のマンションに転がり込み、ソファーに座ってテレビを見ながら絶命する。その夜、ニカ男爵夫人のところへたどり着く前に、古いミュージシャン仲間をホールに訪ねる。満員のホールではリズム&ブルースのライブが行われるのを見て、バードは捨て台詞を吐く。何て言ったか忘れたけど、リズム&ブルースはジャズじゃないというようなことだったはず。

イーストウッド監督は現在の一般的なジャズファンの心情をバードに言わせたのだと思う。

ローゼンタールの本によると、バードたちのビバップの後、すんなりとハードバップに移行したわけでないことが分かる。西海岸のクールジャズが間にあることは有名だ。しかし、ローゼンタールはゲットーにおいては、クールジャズではなくて、リズム&ブルースだったと言っている。

クリフォード・ブラウンもジャッキー・マクリーンも50年代初頭の若い頃はリズム&ブルースのミュージシャンだった。その他にも大勢のリズム&ブルースマンがハードバップシーンに入ってきた。リズム&ブルースの方が食うに困らない。バードバップでは食えるかどうか分からない。それでもハードバップを選んだミュージシャンが居たこと。それを録音したブルーノート、プレスティッジ、リバーサイドなどのマイナーレーベルのオーナーたちがいたという奇跡が重なるようにして、いまぼくたちは50年代、60年代のハードバップを楽しんでいる。

ジャズファンの心はリズム&ブルースではなくて、ハードバップを選んだ。ハードバップにこそ黒人ジャズミュージシャンのアイデンティティがより深く刻まれたからだとぼくは思っている。しかし、リズム&ブルースはカタチを変えつつ発展し続け、多くの聴衆を獲得していく。一方のハードバップは70年代に終止符を打つ。

古いジャズファンは奇跡のような50年代、60年代のハードバップの憧憬を抱いて眠りにつく。時代のクラブジャズがアイデンティティ、それって何的ハードバップを今夜も無表情で奏でている。それを聞いて、ベランダで飼っている電気羊がメーっと鳴いた。

(同日追記)
さっきまで、リー・モーガンの「The Sidewinder」とか、Lou Donaldsonの「Blues Walk」をかけて、一人で部屋の中で身体を動かしてた。そしたら、あることがひらめいたんだ。結局、ぼくはトーキョーのサウンドと肌が合わないだけなんじゃなかって。ま、nu things で聞くトーキョーのバンドたって、数はしれてるから、トーキョーの極々一部を聞いているだけなのに、どこか共通するものを感じ取っている。そう言えば、テレビだって、前はよく見てた Jポップなんかの音楽番組も全く見なくなって長い。音楽番組どころかテレビそのものを見ない。これだって、テレビを見ないというよりも、トーキョー発の文化を無意識に受付ていないと言った方が当たっている感じがする。

ぼくの感性に間違いがないとすれば、トーキョーとオーサカのサウンドに大きな違いがあるってことで、これはとてもいいことだと思う。