情事 / ミケランジェロ・アントニオーニ監督

1960年イタリア映画。ぼくは『情事』を1962年の高校1年、16才の時に見ている。娯楽としての映画をアートとして意識したのが中学3年だから、芸術映画が面白くてたまらなかった頃だった。でも、この映画は全く理解できなかったはず。16才のぼくはひたすら、ヒロインのモニカ・ビッティの大人の女性の存在感に釘付けになっていただけだった。

その『情事』の監督ミケランジェロ・アントニオーニが1週間ほど前に亡くなった(2007年6月30日)。さらにその一週間前に偶然、レーザーディスクで『情事』を見ていた。気軽に見ようという気にならない映画なので、今までもほんの数回しか見ていない。しかし、そのたびに、新鮮な感動が得られる。カメラアングルだったり、モニカ・ビッティの今までは気付かなかった仕草だったり、見る度に新しい発見があって、おそらく一生、ぼくはこの映画を見続けると思う。

モニカ・ビッティは外交官の娘の女友だちの役で、自称貧乏人出身の彼女は外交官の娘と共に上流階級のサロンに所属して、遊びを共にしている。なぜ、彼女がそのサロンにいて、その中心人物である年上の貴族の女性に可愛がられているかなどのいきさつは描かれていない。

映画の冒頭、外交官の娘が失踪する。モニカ・ビッティは彼女の跡を彼女の恋人と共に追っている過程で、その男を愛するようになる。始めは憎悪さえ抱いていた男への感情が愛に変わる変化を見る映画だ。

映画は彼女の心の動きを描いている。ほかの上流階級の人間達の精神は静止しているので、それらを背景にモニカ・ビッティの精神だけが憎悪から愛に向けてゆっくりと移動している。淀んだ上流階級の精神性を告発する映画ではない。時間の静止した彼らは、あくまでも風景と同じ背景として描かれる。時間を持っているのは下層階級出身のモニカ・ビッティ役の娘一人だ。娘娘していた彼女のこころが男に対して憎悪から愛に変わるとき、コケティシュとアンニュが同居するようになる彼女の演技が見ものだ。そして、愛に裏切られ、愛を憎悪する最後の静的な仕草は、東洋人の理解を超えている。これがヨーロッパ文化なのかと思う。

失踪した女友だちは最後まで姿を見せない。彼女はなぜ失踪したのか? ぼくは歳を重ねる度に理解が深まっていく。スクリーンに存在しない彼女の存在が重い。

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カテゴリー: Movie