ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を見て以来、キューバ音楽が気になっている。と言ってもキューバ音楽にはほとんど知識がないので、何を聞いたらいいのか分からない。先日、市立図書館のラテンミュージックのコーナーで NG La Banda の『Cabaret Panoramico』を借りてきたけど、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のノリとはずいぶんと違うので一部の曲を除いて余り聞けなかった。しかし、村上龍氏のライナーノーツにはすごく興味を持った。
「聖なる言葉、サンタ・パラブラ」という曲の解説が特に心に染みた。ここではキューバのサンテリアと呼ばれる多神教の神々が歌われているという。村上龍氏はそのサンテリアの儀式に参加した体験の後に以下のように書いている。
キューバのミュージシャンは、音楽面で迷ったらいつでもサンテリアに戻って、ある確信を掴むことができる。
それはジャズやソウルの音楽がいつでもブルースに回帰できるのと同じで、進化させながら、民族全体で守ってきたものであるためだ。それがなくては生きられない、という切実さで守ってきたものが、逆に常にその民族を救うわけである。
日本のロッカーやジャズマンは、能や狂言に戻ることはできない。ブルースのルーツも持っていない。オルケスタ・デ・ラ・ルスは、日本人としては最高のサルサバンドではあるが、『サルサに国境はない』というタイトルのCDを発表したので、おかしいな、と思った。
国境、移民や奴隷としての決定的な民族的他者との遭遇が、サルサを産んだのである。
キューバのミュージシャンは、切実にラテンビートを守り、進化させ、それを生きのびる手段にしてきた。ラテンビートが存在しなかったら、彼らは確実に、死に絶えるか、システムの奴隷になっていただろう。(中略)
切実な音楽は、聞く者を切実にさせるわけではない、解放するのだ。日本の一部のラテンファンアは、頭が空っぽなので、ラテンビートそのものも頭が空っぽな人間が生み出したものと感違いしている。
キューバ音楽はどんな意味でも、趣味的ではない。
サンテリアがそれを証明している。
日本は逆だ。
すべての音楽が趣味と同一線上にある。楽しむことはできるが、絶対に感動がない。
そうなんだ。前はけっこうテレビでJポップなんかを楽しんでたんだけど、気がついたらもう何年もその手のテレビ番組を見ていない。ネット時代になって、楽しみがいろいろと増えたんで、音楽に求める価値観がシビアになったんだと思う。つまり、趣味的に楽しむレベルでは音楽を聞けなくなった。聞くんだったら、音楽に感動がなければ聞いていられない、ということになったらしい。村上龍氏の解説を読んでこんなふうに考えた。
それから、移民や奴隷といった歴史的背景をもつジャズやロックを、全く異なる歴史的背景の日本人が演奏できるんだろうか、というぼくの疑問にも、村上氏の解説にヒントを見つけられると思う。趣味的な楽しみと感動の二つのレベルの違いを村上氏が言うように理解していれば、ミュージックシーンがより分かりやすくなるはずだ。
なお、NG La Banda の CD 『Cabaret Panoramico』はキティより1993年に発売されたもの。