大阪中央区南本町、jaz’ room nu things での阿木譲氏のDJ、Hard Swing Bop の今夜はセシル・テイラーが選曲されるなど、ちょっと危うい領域を垣間見た。先に書いておくけど、今夜ほど、ジャズに酔ったことはない。ジャズが疾走している。阿木譲が疾走している。月に一度とシリーズ化している Hard Swing Bop だが、毎回、微妙といえば微妙に、大胆といえば大胆に変化している。その推移自体がまた、ジャズだろうと、ぼくは感じている。無駄をそぎ落とした、jaz’ room nu things のスペースに響くジャズは世界のどこにもないジャズであることを、今夜ほど確信したことはない。このとき、ここにしかないジャズを聞く贅沢を味わった。
選曲は、フレディ・ハバード、ティナ・ブルックス、ハンク・モブレー、ドナルド・バード、ジョー・ヘンダーソン、ウエィン・ショーター、ブルー・ミチェル、ジャッキー・マクリーン、グレチャン・モンカーなどのホーン・プレーヤーの参加する1960年から65、6年ころまでに集中した。
ハード・バップは50年代後期にはすでに形式としては完成していた。60年代はハード・バップの成熟と破壊の狭間をジャズメンは突き進んでいた。ハード・バップと隣り合わせにフリー・ジャズが台頭していて、ジャズメンは極度の緊張を強いられていたのが、60年代だ。フリー・ジャズはジャズ史のみで語ることはできない。公民権運動のキング牧師の死やブラック・パンサー党の登場などの背景なくしてフリー・ジャズはない。しかし、フリー・ジャズメンだけが、社会的緊張の渦中にあったわけではない。上記のハード・バッパーもまた、その緊張のまっただ中にいた。
今夜の阿木氏はブログ(2007.3.30)で以下のように書いている。
「ジャズ。始まりは、性行為やセックスにつながるすべての事柄を指すアメリカの黒人の俗語だったジャズが、エリートな音楽であるはずがない。ジャズは都市に生きるものたちの若く力強い息吹きで溢れた人間的で俗っぽいものだった。ところが誰のせいなのか、いつの間にかなんだか鼻につくほどのエリート音楽に成り下がってしまっている。」
60年代の社会的緊張を生き抜いて、今につながるハード・バップをプレイしたのは、エリートではなくて、「都市に生きるものたちの若く力強い息吹きで溢れた人間的で俗っぽい」心の持ち主たちだったに違いない。そうした今夜のハード・バッパーの中でも、特にジョー・ヘンダーソンに境界を走る危ういプレイを感じた。もう純粋のハード・バップとは言えないが、フリー・ジャズではない。そしてセシル・テイラーがかかった。ここが今夜のハイライトだった。重要なことは、この夜、セシル・テイラーはフリー・ジャズではなかった。ハード・バッパーの延長として伝わった。DJの技だ。
なおもしばらく、極度の緊張が jaz’ room nu things の空間を疾走した。もうろうとした頭でぼくは考えていた。リスクを回避した人生では、こんな快感は得られないだろう・・・と。ハード・バッパーと通じ合える一瞬だった。しかし、DJは終わりにかかっていた。リー・モーガンがプレイする〈Whisper Not〉の甘美なメロディで我に返った。1956年12月レコーディングのハード・バップがポピュラー・ミュージックのようだった。