阿木譲のDJ「Hard Swing Bop 6」@ nu things

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昨夜、阿木譲氏のDJ「Hard Swing Bop 6」へ行った。とても寒い夜だった。前夜は仕事で余り寝ていない。大阪本町の nu things に座ると、疲れた身体にハード・バップが突き刺さった。「ハードバップは決してノスタルジアではない・・・」とイベントのインフォメーションにある。阿木氏は月に一度、モダンジャズのハード・バップをメインにDJしてきた。それも、もう半年以上になる。

ハード・バップは50年代の初め、ニューヨークのジャズ・シーンの中から生まれたモダンジャズのひとつのスタイル。それまでのチャーリー・パーカーなどを代表としたビバップを発展させたものだ。56年から57年にハード・バップは頂点を迎え、なおも60年代前半まで発展し続けたが、以後は、ファンキー・ジャズ色を強める一方で、フリー・ジャズの台頭などで影が薄くなる。70年代に入ると、クロス・オーヴァーと呼ばれる後のフィージョンの人気によってハード・バップは過去の遺産になった。

ハード・バップはモダンジャズのひとつのスタイルとは言うものの、時代の精神性を強烈に反映したもので、楽譜に書き起こして再現できるものではないと思う。そういう再現の可能なエンターテイメントとしてのスイング・ジャズ、または、今なお、演奏されているフィージョンなどと、ビバップ、ハード・バップ、フリー・ジャズは一線を画していると思う。極端な言い方かもしれないが、アートとエンターテイメントの違いかもしれない。

阿木譲氏は70年代後半から80年代、雑誌『ロック・マガジン』誌を発行し、パンクロックのエヴァンジリストとして、マニアックなファン層から圧倒的に支持される存在となった。パンクロックと一口で言っても、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックやフィリップ・グラスなどのミニマム・ミュージックなど、ロックから現代音楽につながる広いエリアをカヴァーしていた。当時のぼくは、彼の発信する情報の恩恵に預かっていた一人だが、『ロック・マガジン』誌の休刊で聞くべく音楽の指針を失なった。続いて訪れた不景気による仕事の激減で、音楽どころではなくなった。それからの長い空白の20年が過ぎて、阿木譲氏と再会したとき、氏は nu Jazz を語り、今こうして、ハード・バップをDJしている。

なぜ、多くの音楽遺産の中から氏はハード・バップを選んだのか。ぼくの抱いていた疑問だった。その疑問は、休みなく続く4時間のDJを半年間に渡って月に一度、体感することで得られた「感性」で確認するしかできないものであることを昨夜は感じた。この夜、フロア一面に置かれたブルーノート・レーベルのアルバムからセレクトしながら、氏のDJはいつもに増して疾走した。いつもなら、取り上げるアルバムをメモするのだが、ぼくはそれをしなかった。じっと目を閉じて意識を集中していた。フロアで踊る人の動きが時間とともにリズムに反応するように、ぼくのこころも、時間とともに、DJに応えていた。

「ハードバップは決してノスタルジアではない・・・」。半世紀も前にニューヨークの街に10年余りしか存在しなかったジャズ、ハード・バップがノスタルジアでないわけがない。ハード・バップがノスタルジアでなくなるのは、DJがターンテーブルを変える一瞬が創り出す連続性だろう。それを休みなく4時間、体感することで得られる感性がハード・バップと握手する。ブルーノート盤をレコードショップで買い求めたって、あるいはジャズ喫茶で聞いたって、それはノスタルジアだ。

「今夜は気合いが入っていましたね。」、ぼくはプレイを終えた阿木氏に言った。「そうね、今夜でこの企画も終わりにしようと思ったからなんだ・・・」と氏。「一番最初の Hard Swing Bop を思い出しました。」「そうね、あの日のプレイを意識していた。」

少し大げさだけど、ぼくは伝説の作られる場に立ち会っているような気になった。この半年間の、とくに昨年の7月とこの夜のDJに強いインパクトを受けた。詳細なアルバムリストが存在したとしても再現することはできない種類のものだ。精神的な領域に深く関わっているからだ。曲間に疾走した時間は再び戻ることはない。

最後にアルバムリストは取っていないが、プレイの傾向を記しておきます。フロアに300枚のブルーノー・アルバムを敷きつめていました。全部を敷くことはできずに段ボール箱にも入ってました。しかし、セレクトされるアルバムはそれらハード・バップの中から幅広く選ばれるわけではなかったです。ホレス・シルヴァー、ルー・ドナルドソン、ジミー・スミスといったゴスペルの影響を感じさせるファンキー色の濃いものは完全に避けていました。ブルース・フィーリングの強いものもなし。ソニー・クラークの『クール・ストラティン』とかリー・モーガン『サイドワインダー』といった誰もが知っているアルバム、コルトレーンやロリンズといった超有名ジャズメンも避けていました。しかし、アート・ブレーキーは例外でよくかかります。ブレーキーのドラミングは大音量で聞くと格別です。昨年の7月にはハンク・モブレーとリー・モーガンに片寄っていましたが、これもなかった。

メインは56-57年の録音よりも60年前後、すなわちブルーノート4000番台に片寄っていました。氏の最近の傾向はジャッキー・マクリーンの傾倒にあるようです。この夜も多かった。マクリーンやドナルド・バードの60年代初頭、フリー・ジャズの影響を感じさせる観念的なハード・バップが意図的に選択され、効果的なスペースを創り出していたと思います。彼らのリーダー・アルバムはもちろん何枚も取り上げられているはずです。選択されたウォルター・デイヴィス・ジュニアやティナ・ブルックスなどのリーダー作にも参加しているので、ジャッキー・マクリーンはかなり回されていたはずです。予定より早く終えることもあるのに、この夜は予定の11時を過ぎても続いていました。ぼくは途中から入場していますが、最初はスローな曲から始めたらしいです。それも最初だけだったのでしょう。ぼくの聞いていた3時間強には、バラードはなくて、アップテンポなナンバーだけで駆け抜けていました。