NHK衛星放送でみる。1946年作品。浮世絵には関心がないので、歌麿も名前を知っているぐらい。でも、溝口の「歌麿をめぐる五人の女」には何かを期待して見たが、単なる娯楽作品の域を出るものではなくて、がっかりだった。戦時中の1942年に大作「元禄忠臣蔵」を溝口は作っている。これはビデオを持っていて数年に一度は鑑賞している好きな作品だ。そこには登場人物たちの深い内面が巧みに描写されていた。「元禄忠臣蔵」は主君に対する忠義がテーマだったが、「歌麿をめぐる五人の女」には「芸」をテーマとしつつ、終戦直後を考えるなら自由を得た精神描写を勝手に期待していた。しかし、そういう映画ではなかった。
GHQの統制のもとでの映画製作だから、制約があったはずだ。求められたのは疲弊している大衆が明るくなるような、豪華絢爛時代絵巻だったのかもしれない。実際、花魁が行列する豪華なファーストシーンには圧倒された。花魁や茶屋の女など華やか女たちや錦絵問屋の旦那や遊び人など粋な人間達の中心に歌麿がいる。それだけで、豪華絢爛なシーンの連続だ。そこに恋の駆け引きや絵師の心意気などが描かれるが、どれも紋切り型な印象に終わってしまい、深くこころに届くものがなかった。
歌麿をめぐる女の中でも、田中絹代が演じる水茶屋の女が最重要人物で、最後に彼女は情痴沙汰まで起こしてしまう。溝口作品では常に田中絹代の演技が高く評価されているが、ぼくには彼女の演技がどの作品においても違和感を覚えている。特に本作品の情痴沙汰にまでいたる情念が彼女の演技からは伝わってこない。
ひょっとしたら、溝口作品においては田中絹代一人が日本的情感を一人で背負っているのかもしれないと思いはじめた。「祇園の姉妹」(1936年)の山田五十鈴、「雪夫人絵図」(1950年)の小暮実千代、「祇園囃子」(1953年)の若尾文子、そして「近松物語」(1954年)の香川京子たちが演じるヒロインたちは日本的情感を捨てる葛藤が描かれている。その精神性が溝口映画を輝かせている。しかし、田中絹代一人はいつも日本的情感を捨てることとは無縁な女として描かれているように思える。ここのところが、他の女優に比べて田中絹代が、にがてな理由なのかもしれない。