50s~60sフランス映画とモダンジャズ

1950年代から60年代のフランス映画を見ていると、サウンドトラックにモダンジャズが使われていることが多い。女優ジャンヌ・モローのモノクロの映像の背後にモダンジャズが流れると、その場のアンニュイな感じがとてもたまらない。マイルス・デイビスが音楽を担当したルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1957年)なんて代表的な映画だ。アート・ブレイキーにはロジェ・バデム監督『危険な関係』(1959年)がある。

これらのフランス映画では、モダンジャズが知的な大人たちを象徴させる道具として使われている。こんな映画のモダンジャズに浸っていると、ちょっと大人になった気分になる。ぼくは高校生のときにこんなフランス映画を映画館に行って見まくっていた。思い出すとフランス映画だけでなく、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニ監督の『』(1961年)やポーランドのイエジー・カワレロウィッチ監督の『夜行列車』(1959年)などにもジャズが流れていた。

当時も今も、ヨーロッパの人たちはジャズが好きなんだ、ぐらいしか思っていなかった。今、クラブ・カルチャーの歴史が書かれた『そして、みんなクレイジーになっていく』を読んでいるんだけど、下記の文章に出会って納得した。

最初にディスコティックという言葉を使ったのは、占領下のパリのウシェット通りにあった小さなバー、〈ラ・ディスコテーク〉である。戦時中だったためバンドはいない。そこでこの店ではジャズのレコードをかけた。黒人の音楽であるジャズは、フランスのレジスタンス活動家に強い共感を呼び起こすものだった。ナチスはユダヤ人にもまして黒人を嫌った。だからこそ、反抗の音楽として最適だった。
パリの地下室や秘密の酒場には初歩的なPAシステムが取り付けられ、客はそのすばらしいジャズの響きとともに最高のレジスタンス音楽を味わうことができた。戦時下のパリでディスコティックを経営することは、市民の反抗運動に参加することだった。何ともぴったりではないか。アウトローのたまり場というディスコティックの変わらぬ名声は、占領下の薄暗い地下室ですでに決定づけられていたのだ。

ビル・ブルースター、フランク・ブロートン著『そして、みんなクレイジーになっていく』(島田陽子訳)p79

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カテゴリー: Music