本書を読んで、ぼくはネット社会についてほとんど知っていないんだと思った。確かに、必要な情報をネットから得ているし、mixiやTwitterもやってる。でも、それらはネット社会の明るい昼のような部分だ。闇の部分については、ほとんどというか全く知らない。そんなんで、本書を興味深く読んだ。ただ、本書はその闇のドキュメントを主題にしたものでなく、実態を簡単に紹介しているだけなのだが、ぼくにはそれで十分だった。
取材は当初、ネット依存症や闇サイトなどネットの暗部と目される部分の実態を把握し、その打開策を模索する目的でスタートした。ところが、取材を進めれば進めるほどその暗部は複雑な様相を露にする。取材者としての私はその複雑性を解明しようとさらに暗部にのめり込んだ。
けれども、無造作に横たわる小さなヒントが拾えるのみで、行けど暮らせど、これだという解答に出くわさない。永遠においでおいでを繰り返すネットの世界に私は慄然とした。
あるいは、ネットのこのような性向が、ある種の中毒性を醸し出しているのかもしれない。(p10)
「はじめに」で、筆者はこう書いている。ネットの複雑性ゆえに、暗部に対する打開策などできようがない。だから、本書は観察に徹しているようだ。結論や解決を求めないそのスタンスから、筆者の観察にすなおに耳を傾けるころができたのだと思う。
ネットの匿名性が諸悪の根源のように問題にされている。しかし、これも多面的に見る必要があるというわけだ。
精神科医の斉藤環氏は「日本人のある種の創造性は匿名性の確保から生まれている。そういう意味で、匿名性を確保したネットは非常に重要だ。ネットから匿名性を排除すれば衰弱するだろう」との認識を示している。
要するに匿名性はコミュニケーションを活性化させるカンフル剤としての役割も担っているのだ。ただ現在のネットのように、匿名性が乱用されると闇雲な世界が際限なく展開されることになる。(p20)
自殺サイトというものがある。ネットの暗部を象徴しる陰湿なサイトとして一般には認識されている。しかし、筆者は次のように書いている。
自殺系サイトには自殺を思いとどまらせる抑止効果もある。救いなき社会に絶望して死の淵で苦しんでいる者同士にしか理解できない濃密なコミュニケーションが、自殺仲間を募集する一方で展開されているのだ。
抑止効果を重視する自殺系サイトに詳しいノンフェクション作家の渋井哲也氏は「自殺系サイトがネット上から消滅すれば、お互いを慰め合う場がなくなる」と懸念する。
同サイトには自殺を願望しない者まで引きずり込む危険性があると指摘する識者をときどき見かける。しかしこれは杞憂で、自殺を志望しない者が同サイトに感化されて自殺を企てたと見られる事例はほとんどない。(中略)そもそも、自殺志願者はだれかを巻き込もうという発想がない。優等生タイプは他人を巻き込むことを極端に嫌がる。(p25)
次いで、ネットがいじめを加速させる、ひきこもりとネット、出会い系サイトの実態と章がつづき、出会い系サイトの結論として次のように書いてある。
飢えたように出会い系サイトに群がるのは、孤独から逃れる交流の場が現実社会にないからだろう。その背景に広がるのは共同体の荒廃だ。
かつて存在したはずの共同体(あるいは共同体意識)は、いまや風前の灯。自治体はおろか家族すら共同体として機能しなくなっている。
「弱肉強食」「格差社会」「ネットカフェ難民」「ワーキングプア」「ひきこもり」「クレーマー社会」「自己チュー」「モンスターペアレンツ」「切れる子」「反知性主義」「二分割思考」等々、現代日本を表すネガティブワードは山ほどあるが、これらは壊れた共同体の破片が放つ妖光のようでもある。
共同体の荒廃により人間関係が希薄化し、糸の切れた風船のように浮遊した人々が共同体を夢想し辿り着いた先が出会い系サイトだったのではないか。(p58)
以下、ファイル交換ソフトのウィニー・シェアの恐怖、有害情報へのアクセスもケタ違いに簡便化されたオープンでフラットな世界の功罪とつづき、ネット世界の凝縮形としての2ちゃんねるに対して肯定派・擁護派の声を聞いている。さらに、ブログという名の言論空間、そしてその炎上のメカニズムへと続く。
以下、ケータイ文化論、ネットのビジネス性、ネットの未来のためにと、興味ある章がつづく。
ネット社会の闇に対して、フィタリングやオープンIDといった顕名性への重視という流れがあるそうだ。筆者はどちらにも懐疑的だが、明確な打開策は最初に触れたように提示していない。ネットリテラシーの向上に期待はしているが、ぼくは、ビジネスの章で書いてある筆者の以下の見解にこころが動かされた。
私にはこんな思いもある。「ビジネスなど度外視して、好意をやり取りし合う場に徹したほうがネットは発展する」(p233)