2005年のジェームス・チャンス来日公演に合わせて企画されてもの。アルバム『NO NEW YORK』がリリースされた1978年を中心とした時代が、ニューヨークが様々な人の証言で鮮やかに浮かび上がる。とても面白かった。これを読みながら、ビデオの『DOWNTOWN81』を棚の奥から探し出して、DNAとジェームス・ホワイトのライブシーンを繰り返し見ながら気分を高揚させた。ジャン・ミシェル・バスキア主演のこの映画のプロデューサーへのインタビューも載っている。
ぼくはパンクシーンにはちょっと出遅れた。長いことフリージャズを聞いていたので、ロックには全く関心がなかったせいだ。いま、ウェブで検索したら、エルヴィス・コステロの来日公演が1978年11月と分かった。このライブがぼくのパンクロック初体験だった。
だから、フリージャズとおさらばしたのは、同じ年の京都の西部講堂だったはず。それは間章氏がプロデュースするフリー・ジャズのイベントで、デレク・ベイリーをメインに日本のフリー・ジャズ・ミュージシャンが参加する公演だった。その夜、ぼくの大阪の友人たちが前座でプレイした。その中に東京からやってきたベーシストが入っていたが、彼は日本の有名なフリージャズ・ミュージシャンのバンドに参加してヨーロッパ・ツアーから帰ったところだった。
その彼から、ロンドンのパンク・ロック・シーンを聞いて、ぼくはフリージャズを聞くのを止めようと思った。1963年か4年にコルトレーンのアルバムを初めて聞いたが、それは『Coltrane Live At The Village Vanguard』で、初めて聞くソプラノサックスに圧倒され、それまで聞いていた上品なモダンジャズを止めた。それは高校の2年か3年の頃で、コルトレーンのショック以来、学校をさぼって平日の昼間の客のいないジャズ喫茶でオーネット・コールマンやアーチー・シェップをリクエストしまくった。
そして65年頃、初めて買ったフリージャズのLPはアルバート・アイラーの『Ghost』だった。それから10年以上が経った78年は、デレク・ベイリーやアンソニー・ブラクストンなどのフリー・ジャズは難しい観念の世界にはまり込んで空回りしているようにぼくには思えた。その時は惰性で聞いただけだったのでパンク・ロックのことを聞いてフリー・ジャズを捨てることに何の未練もなかった。
新聞広告で見ただけで何の知識もないままに行ったエルビス・コステロのライブでパンク・ロックを確認できたので、輸入レコードショップに走って、パンクの棚のアルバムを買いまくった。その中に『NO NEW YORK』があった。情報を求めて阿木譲氏の『rock magazine』誌に出会う。本書にはその頃の懐かしいページがそのままに再録されている。その編集室で出会ったことのある Aunt Sally の Phew さんも登場して『NO NEW YORK』について語っている。
いや、本書は1978年をノスタルジックに振り返る内容ではない。本書ではニューヨーク・パンクがニューウェイブとなり、パンクの精神性が失われようとした矢先の78年に一瞬だけ輝いた NO NEW YORK イコール NO WAVE を、フリー・ジャズから現代のソニック・ユースなどのノイズ・ロック・シーンにつなげるものとして扱っている。ここがとてもいい。
NO WAVE―ジェームス・チャンスとポストNYパンク
企画・編集 「チャンス本(仮)」製作委員会
発行 Esquire Magazine Japan Co.,Ltd、2005年7月