1965年、イタリア映画。
見終わったとたん、これは駄作ではないか、と思った。60年の『若者のすべて』の完成度に比べられないと思った。しかし、『熊座の淡き星影』の感想文を書こうと考えているうちに、ちょっと重要な作品ではないかと思い始めた。『若者のすべて』のアラン・ドロンの演じたロッコとこの映画のクラウディア・カルデナーレが演じるサンドラは同じではないかと突然ひらめいた。ロッコの退廃を暗示して『若者のすべて』は終わった。『熊座の淡き星影』も同じだ。サンドラの退廃を暗示して終わる。
サンドラは国連に勤めるアメリカ人と結婚をしている。彼が、ジェネーブからニューヨークに戻るお別れパーティのシーンから始まる。翌朝、夫妻はサンドラの故郷である古い都ヴォルテッラを夫の運転する車で向かう。パーティ会場のピアニストの演奏する曲といい、車での移動の風景描写といい、田舎では危うい出来事が待っているであろうことを暗示させている。
実家の古い豪邸の一部を地元の市に寄贈するにあたっての公式セレモニー出席が帰郷の目的だ。そこでは、亡父の像の除幕式が行われる予定だ。実家は母の再婚相手の義父によって管理されているが、実家には家政婦のほか、誰も住んでいない。母は公演にあけくれたクラシックのピアニストで、今は精神を病んでいる。サンドラは母と義父が共謀して、父がユダヤ人であることを密告したと思っている。父はナチスの強制収容所で死んでいる。サンドラがその収容所跡の調査での熱心で真摯な行動にうたれたと、夫はサンドラの弟ジャンニに語るシーンがある。
屋敷に着いた夜、弟のジャンニもまた現れる。ジャンニは姉の夫アンドリューを誘って街へ飲みに家を出る。途中、朽ちていく修道院跡を観光客なアメリカ人アンドリューに説明するジャンニの妖しい振るまい。酒場ではサンドラを思い続けているという、今では母の主治医ピエトロをアンドリューに紹介するジャンニ。深夜、帰宅して客間へ向かうアンドリュー、サンドラは自室で休むことを言ってある。その部屋のノブを回す弟ジャンニだが、鍵を開けない姉のサンドラ。
幼少期、父の不在、母は公演旅行。義父の管理下で精神的にも肉体的にも抱き合うように、幼少期を乗り切った姉弟だった。しかし現在、姉は社会性的理性を獲得して過去と精神的に決別している。弟ジャンニはいまだに過去と決別できない作家志望の青年。彼はサンドラに「田舎なんかに来たくないと思っていても、一旦戻ってしまうと気持ちは過去の時間に戻ってしまう」と暗に過去の甘美な時間の再現をほのめかす。
人のよい、夫アンドリューは姉弟と義父の和解を画策するが失敗、ニューヨークで待っているという手紙を残して一人、旅立っていく。その前から再三にわたって、実家からの早い退去を妻にすすめるが、サンドラは拒みつづけていた。過去の時間に生きているジャンニは社会的理性であるサンドラへ毒を含んだ言葉の刃を突き付ける。「強制収容所の調査も義父の密告疑惑の追求も反倫理的な自分の過去を隠蔽するための行為」だと。姉弟二人の過去の甘美な時間は姉サンドラに芽生えた倫理観によって汚されてしまったと感じる弟ジャンニ。
ジャンニはサンドラの倫理観に対抗する。ぼくも案外、野心家でね。と、自分たちの生い立ちを綴ったストーリーだという自伝的小説の草稿をサンドラに渡す。これが売れないはずはない、編集者のお墨付きだと言う。読んだサンドラは強く出版を止めるよう説得する。最後、時間は過去に戻らないことを知ったジャンニは草稿を暖炉で焼いて服毒自殺を計り、死にたくない、と苦しみながら絶命する。
ジャンニの死を確認した医師のピエトロは、事態を知らせるためにセレモニーの場へ走る。遠くに、庭の一角の、風に木の葉を揺らす巨木の元、亡父の像の前に立つサンドラが見えている。そこで、映画はまるでフィルムが切れるように終わる。
姉弟の近親愛も母と義父の父への裏切りも、愛憎や憎悪の会話で表現されるだけで、どこまでが真実なのかは分からない。姉弟は精神的な領域では疑いのない固い絆の愛で結ばれていた。それが壊れるとき、サンドラを二人の精神領域に踏み留まらせるためにジャンニは死を選んだ。ぼくは、サンドラはジャンニの要求を受け入れざるを得ないと思う。ニューヨークへは旅立たず、故郷に踏みとどまって、過去の時間の中で朽ちて行くんだと思う。
最初、『熊座の淡き星影』が駄作だと思ったのはサンドラを演じるクラウディア・カルデナーレの固い演技に理解が及ばなかったからだ。それは姉の倫理性を表現していたに違いない。『若者のすべて』のアラン・ドロンも朽ちていく。『熊座の淡き星影』のカルディナーレも郷里で朽ちていく。ドロンの方が演じやすい設定だ。こっちは難しい演技を要求されたに違いない。ヴィスコンティ監督は退廃が避けられない現場にわたしたち観客を導き続ける。