今日、宇多田ヒカルさんはサイト(Hikki’s WEBSITE)に藤圭子の葬儀について書いている。葬儀はなく火葬のみという点について、母の遺言書に基づき、その意向にそうべく精一杯の弔いをしたとある。また藤圭子は身内や知人の葬儀に出席せず、自分のやり方でお祈りを捧げるポリシーの持ち主だとも書いてあった。
とても共感できる内容で、また一段と藤圭子が好きになった。ぼくも葬儀や告別式は好きでない。できることなら出席したくないけれど、全く出席しないのは難しい。でも、自分のときは病院あるいは今度の藤圭子のように警察から火葬場に直行して葬儀なしで焼かれたい。遺骨は散骨などで処分されて墓に入れられたくないと思っている。
今日は宇多田ヒカルさんのサイトを読んでから、藤圭子の初期の唄を何度も聞いた。「新宿の女」(69年9月)、「女のブルース」(70年2月)、「圭子の夢は夜ひらく」(70年4月)、「命預けます」(70年7月)のデビュー曲から4作目までを何度も聞いた。「女のブルース」の歌詞の良さに気づいた。「命預けます」の唄いっぷりに惚れた。69年から70年はぼくにとって特別な時で、彼女の唄が心に沁みていた。今彼女の唄を聞いていていると、いやでも当時のことが浮かんでくる。
当時ぼくは、安保闘争などの左翼運動が終焉して完全に行き場を失っていた。セクトに属さなないただの活動好きに過ぎなかったけど、運動の終焉はこたえた。カミさんとひっそりと文化住宅に住み、時々早朝に起き出して日雇仕事に出る以外は誰にも会わない(会えない)日々が続いていた。仕事を得るのは釜ヶ崎の寄せ場から港区の職安に変えていた。地下鉄に乗って大阪港駅で降りて職安に行った。仕事は大阪港がメインだけど、神戸や堺の方にも行った。遠くだとマイクロバスで運ばれる。大阪港だとすぐ近くの岸壁から小さな船に乗せられて港内に停泊している貨物船まで運ばれる。昼の弁当を渡されて屋根もない小型船に乗り込むが、冬だとまだ暗く粉雪が舞っていることもあった。そんなとき弁当の包みを抱きながら藤圭子の唄を口ずさんでいた。
71年か72年かはっきりしないけどジャズ喫茶「マントヒヒ」に通いだしてから人と話しをするようになった。それまではカミさんと二人だけの、ほとんど引きこもりの日々だった。藤圭子の唄を歌詞に注意して聞いていると、当時のぼく自身の心の内がすけて見えるようだ。