宮台真司著『日本の難点』を読み始めたら、ケータイ小説を70年代から80年代の少女マンガと比較して説明している。これはおもしろくて納得できる分析だと思った。
ぼくは70年代に少女マンガを夢中で読んでいたことがあった。少女マンガが純文学や恋愛小説を越えているとさえ思っていたことがあった。本書によると少女漫画全盛期は1973年から86年だと書いてある。80年代には、ぼくもいつの間にか少女マンガを忘れてしまっていた。しかし、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子、吉田秋生などの作家名は今でも覚えている。
宮台氏は美容室でインターンの女の子たちと少女漫画の話をする習慣があり、80年代後半から「少女漫画が難しくて分からない」という女の子たちが目立ちはじめて驚いたと書いている。そういう女の子たちというのは、関係性から退却するオタク系とは別の、関係性を記号化する非オタク系で、80年代半ばから顕在化しているそうだ。
それから20年近くたってあらわれたのが、ケータイ小説で、『恋空』を例にあげて、そこには「関係の履歴」ではなくて「事件の羅列」のみがあると言っている。読者は濃密な人間関係を経験したことがないので、濃密な人間関係を描く小説や漫画や映画に触れるとそれらから疎外されていると感じるのだと。読者が望むのは「ディープな関係の履歴」ではなく、「ディープな事件の羅列」なのでしょう、と書いてある。
関係性というのは、少女漫画全盛期の主人公の少女が置かれた関係性に、読者が自分を重ね、これはまるで自分のようだと感じつつ、現実世界における自分と世界との関係を少女漫画を参考に解釈する、という説明から理解できる。
この関係性は80年代後半に終息し(=少女漫画の終焉)、時代は時の流れを前提とした関係性から15秒コマーシャル的なシーンへと変化したと著者は見ます。シーンはいわば関係性を記号的に短絡したもので、この80年代後半の変化がより広範化し、進化したものこそが「ケータイ小説的なもの」の正体ではないか、と書いている。
なるほどと思った。ぼくはケータイ小説を読んだことがないが、1年前に、濱野智史著『アーキテクチャの生態系』で、やはりケータイ小説『恋空』の詳しい分析を読んだことがある。その時にケータイ小説ってどんなものかが分かっていた。今度、宮台氏のを読んでさらに理解が増した。
エヌティティ出版
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