今日、阿木譲氏が亡くなっとツイートが駆け巡っている。急いで検索したら、写真のツイートが見つかった。どうやらこれが彼の絶筆かもしれない。いかにも阿木さんらしい気取った文章で、ぼくが彼と会った1970年代後半から何一つ変っていないと思い、ホッとした。当時、彼が発行する雑誌”ロックマガジン”や松岡正剛氏の季刊誌”遊”に連載する阿木さんの文章に心底熱狂していた頃を思い出させるに十分なセンテンスだ。あれから40年か・・・、「待っていてもなにもやってこないよ、・・・」、と語りかける彼の言葉で、ぼくは今夜フラフラとアメリカ村を飲み歩いた。5件のバーを飲み歩いて帰ってきても癒されず、こうして書いている。
アメリカ村の生みの親と言われる日限萬里子氏を紹介してくれたのも阿木さんだった。彼に日限さんのクラブ”パームス”に連れていかれた。そこで出会ったショートヘアで男装の麗人日限さんももういない。そのアメリカ村でぼくは今夜も遊んでいる。萬里子さん、アメリカ村も随分と変わったよ、と語りかけたい。ぼくにとってパンクロックは阿木さんなしで考えられないが、アメリカ村そのものも阿木さんなしで考えられない。だから今夜、ぼくはアメ村を飲み歩いた。それが供養のように飲み歩いた。
この5月には一人の親しいフロアフレンドの死にも遭遇した。彼女の死はぼくにとって、アメリカ村の街角で出会った”死”だった。さらに阿木さんの死は、アメリカ村の街角を曲がると、やっぱり”死”に出会う、という感じだ。