マイク・モラスキーのトーク・イベント「日本のジャズ喫茶文化―反懐古趣味の視点」

マイク・モラスキーさんは『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』の著者。この本では、ジャズと日本文化は切っても切れない関係であるというスタンスから日本のジャズを考察していた。これをさらに進めて、今度は日本のジャズ喫茶文化について考えているそうだ。

ぼくはジャズ喫茶文化は終わったと思っているし、それが研究の対象になるなど思ってもいなかった。かつてのジャズ喫茶文化にずぶずぶに浸かっていた者として、何を研究しているのか知りたくて、7月6日の大阪「ワイルド・バンチ」でのトーク・イベントに出かけた。

ジャズ喫茶文化はアメリカにもヨーロッパにもないそうだ。なるほど、それなら研究の対象になるかもしれないと納得した。話はジャズ喫茶の定義から始り、内容の大半はその範囲を出なかった。正直、つまらなかった。実際にジャズ喫茶文化を体験していたものには、定義なんてどーだっていい。でも、これは研究だから必要なことは分かる。でも、元ジャズ喫茶店主たちなら懐古趣味を大いに満足できたかもしれない。

そうは言いながらも惹かれる言葉があった。アメリカの評論家か学者から引用だが、
「ジャズ喫茶はアウトサイダーがインサイダーになれる空間」というわけだ。これはあたっていると思う。

では、なぜそうした空間が成立して文化と呼ぶまでに成長をしたのだろう。ぼくが思うに、最初のきっかけは日本の住宅事情じゃないだろうか。60年代から70年代、個室は難しかったし、あっても障子やふすまで仕切られていては、大きな音でジャズは聞けなかった。そして、LPレコードがべらぼうに高価だった。ジャズが好きになった人間は大量のレコードコレクションと大音量で聞くことのできるジャズ喫茶を利用しないわけにいかなかった。

だけど、これだけでは文化と呼べない。ジャズ喫茶が少なからず文化と呼べるのは、背を丸め、身動きをせず、会話をすることもなく不動の姿勢で長時間をジャズに聞き入る客の存在だろう。ぼくもその一人だったので、今から思うと赤面ものだ。

こうした客たちの背景には日本文化があると感じている。なんでも教養主義にしてしまうこと。さらには教養主義に反対して、音楽なんて楽しく聞けばいい・・・。と言った瞬間に「楽しまなければならない」に呪縛されてしまう。これが日本の文化だと思う。

だから、演歌よりも、ポップスよりも、ロックよりも難しそうなジャズこそが、教養主義を満足させてくれるし、より難しいジャズを聞くと「・・・でなければならない」という呪縛こそが心地良くなるという矛盾にはまってしまう。つまり、音楽を聞く楽しみからはかけ離れてしまうというわけ。

ぼくはといえば、ジャズを勉強するとか鑑賞するとかという立場に強い違和感を持っている。ジャズに限らず、音楽は感じることだと思っている。感じなければ、聞かなければいいし、感じればひたすらに聞くだけだ。勉強までして聞く必要はないと思っている。但し、お金と時間を無駄にしないためにジャズの歴史は理解しなければ始まらない。でも、これって勉強じゃない。ジャズ史が分かったからと言ってジャズを感じるわけでないから。

モラスキーさんはジャズ喫茶の聞き取り調査を元にした研究をオンライン雑誌で発表するそうだ。当事者としてその成果が楽しみだ。ただ、トークショーのサブタイトルの「反懐古趣味の視点」を満足させるなら、ジャズ喫茶文化への大胆な批判が不可欠に思われる。もし、礼賛でおわるなら、ジャズ喫茶店主や常連客の懐古趣味を満足させるだけだと危惧してしまう。トーク・イベントでは、その辺りのことの判断はできなかった。

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