粟津潔 荒野のグラフィズム

粟津潔氏の仕事を1948年―1968年、1969年―1977年、そして1978年―2001年と3つの時代に分けて編集された作品集。ここにはグラフィック作品と同時に、その時代に雑誌などに発表された思考も同時に掲載されている。この文章の部分は、大胆かつ凝りに凝ったレイアウトで、氏の言葉を視覚化していて心地良い。

3つの時期であるが、ぼくは1969年―1977年の時期しかほとんど知らない。だから、本書のこの部分に一番の興味を惹かれる。初めて氏のデザインを意識したのは、1968年の映画雑誌「季刊フィルム」だった。毎号買っていたが、その表紙のインパクトの強さが鮮烈だった。篠田正造監督の『心中天網島』とジャン=リュック・ゴダール監督の『中国女』(共に1969年)のポスターには特に思い入れが深い。

いま大型の本書でこれらのポスターを見ていると、非常に感慨深い心境に陥る。ノスタルジーとは少し違うようだ。現在がネット社会でなければ、おそらくその感慨は単なるノスタルジーに終わっていると思う。ネット社会に生きていることで、1969年―1977年を一歩引いて、よく見えているような気が、粟津潔氏のポスター作品を眺めながら思った。70年代と現代の違いは何だろうと考えていたら、下記の文章に引きつけられた。

私は EXPOSE という言葉が好きだ。露出するとか、さらしものとか、見をさらすとか、あるいは陳列するとかの意である。水俣病の患者たちに限らないが、人間の直接的な行為や行動が、そのままとどいてくるメッセージだ。彼らはおのれの身を都市に、街にさらけだすことで、水俣病の何であるかを示して動かない。その示し方はむろん視覚的言語ではあるが、行為そのものがやはり言葉であり、その示された強固な態度は、そのまま強固な言葉となる。
グラフィズムは現代の様式である。様式がすべてを決めている。われわれは、どっぷりとその中で生きている。量が質に転換してしまっている今、「さらす」「身をさらす」「陳列する」のなかに私は、本来の質を見ようとする。それは都市を、街を、グラフィズムを、逆にさらしものとしてみようとする視点の逆転を意味するだろう。(『デザイン夜講』、74年)[p117]

ここに引用した言葉が「1969年―1977年」を説明していると思う。

粟津潔 荒野のグラフィズム
編 フィルムアート社
企画 金沢21世紀美術館
発行 フィルムアート社、2007年11月

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カテゴリー: Design