坂本冬美の「夜桜お七」にシビれる

意外に長引いた風邪も完治したけど、いきなり寒くなってきたので深夜のクラブ遊びはビビってる。そんなんで、昨夜は本当に久しぶりに NHKの歌謡番組(歌謡チャリティーコンサート)を見た。テレビは午後7時の「NHKニュース」とその後、内容によって報道特集の「クローズアップ現代」を見るだけ。新聞を止めて6ヶ月になるけど、新聞を見なくなったらテレビも見なくなった。番組はネットで調べれば分かるが、そこまでしてテレビを見る気がしなくなった。地デジを機会に完全テレビ離れが実行できるかもしれない。

新聞を定期購読していた半年前以前は、よく歌番組を見ていた。で、久しぶりの歌番組で歌謡曲に対して感じるところがあった。それは、家族や地域、会社組織などへの帰属意識を優先させる強い力を感じた。帰属意識そのものは良い面も持っているが、問題は、組織がどれだけ個人に対して「自分らしさ」を許容するのかということだと思う。

歌謡曲は「自分らしさ」を消し去ろう、そこに幸せがあるんだよ・・・と唄っているみたいだ。「自分らしさ」とはアイデンティティと置き換えてもいいし、個人主義と言ってもいい。昔、読んだ本にはよく、西欧の資本主義は個人主義を土台に成立したようなことが書いてあったと思う。ぼくたちの国の資本主義はどーも、そうじゃないみたいだ。だから、歌謡曲には「哀しみ」が常に同居している。

しかし「哀しみ」のサウンドは歌謡曲だけじゃない。ジャズやロックを演っても、この日本的哀しみのサウンドが紛れ込んでしまう。1970年代はフリージャズの時代だったけど、それにだってぼくは日本的なサウンドを感じとっていた。逆にそのサウンドから逃れられないと居直ったのが阿部薫じゃなかったかと今になって感じている。

彼がセリーヌやバタイユを愛読していてのは知っている。それらの西欧の個人主義の小説を読みながら、個人主義になれない苛立ちをフリージャズに託していたのかもしれない。阿部薫は西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」のカバー曲を何度も演奏している。何度か、彼と並んでカウンターで飲むことがあったが、30年前にもどれるなら、「あんたの演ってるのは演歌だね・・・」と、批判抜きに言いたい。阿部は「そうだよ」って、あっさりと答えると思う。しかし、彼の「アカシアの雨がやむとき」にはフリージャズに到達できない苦渋がにじんでいたので、やっぱり「演歌だね・・・」なんて言えるはずがない。

話はいきなり飛んで昨夜の「NHK歌謡チャリティーコンサート」だけど、演歌ばかりの歌手の中で、「夜桜お七」を歌う坂本冬美だけは演歌ではなかった。ぼくは彼女のこの歌が好きで、番組表に坂本冬美を見つけるとたいていの歌番組を見ていたが、昨夜の彼女のお七はちょっと違った。燃える闘魂と表現したくなるような姿勢にしびれた。彼女の内面は知るよしもないが、現実にコミットするスタンスがそのように感じさせるのかもしれない。たぶんモデルと思うが「八百屋お七」のアイデンティティがめらめらとステージで燃えているようだった。