1960年イタリア映画。先日は『ルートヴィヒ』を見たばかりだが、ヴィスコンティはやはり、退廃を描いていることを確認した。もっともこの映画では貧困層を描いているので、堕落と言った方が適切だが、広く、文明や時代が退廃して行く様を描いているんだと思う。アニー・ジラルドが殺されるシーンとラストの末っ子がアラン・ドロンの写真をなぞっていくシーンは胸に突き刺さるような痛みを覚えた。
イタリア南部の貧困な地方から、大都市ミラノに出て来た一家の生活の悲惨な出来事を描いているが、それは、都市文化になることで避けられない変化だと、まるで、ドキュメンタリー映画のように描写している。『ルートヴィヒ』をはじめ、後期の映画であれば、どんな退廃が描かれていても、上流階級の出来事だし、映画の中ということで楽しめる。しかし『若者のすべて』はそのようには楽しめなかった。
実は、この映画、封切りで見ている。中学3年生、15歳の時だった。中学生になって、映画館はもっぱら一人で行くようになっていた。西部劇とか戦争などの活劇映画ばかりだったが、その時この映画を選択した動機は全く記憶にない。しかし、始めてアートとしての映画を見たのが『若者のすべて』だったので、見た年齢をはっきりと記憶している。それからは、子どもっぽい活劇映画は止めて、当時、続々と上映されていたイタリアン・ネオリアリズムの映画を見まくった。そのうち、ソ連、イギリス、フランス映画なども入ってきてヨーロッパ映画に勢いのある時代が続いたものだ。
で、15歳でこの映画を見た感想はというと、すごいショックを受けた。大人になることに虚無的になり、同時に大人になることに夢を持てなくなった。だから、ヴィスコンティの映画はたいていのものは数回見ているのに、『若者のすべて』だけは今日が2回目の鑑賞だ。余りに悲劇的なんで、もう見ることはないと思う。
そうそう、15歳の青少年っぽい記憶は、クラウディア・カルディナーレの美しさに惚れ込んだこと。以後は彼女の映画は随分と見たものだ。それから何十年か経って、彼女の記憶もすっかりと消えてしまってから、グレタ・スカッキの『ア・マン・イン・ラブ』を見ていたら、カルディナーレがスカッキの母親をやっているのにはびっくりすると同時に甘酸っぱい感情が湧き出てきたものだ。その映画ではすごくいい役だったんで、救われたよ。カルディナーレはファンとして意識した始めての女優だったから。