(旧ブログからの転載)
Handshakeはノイズミュージックをメインとするイベント。その第1回目と2回目は細野ビルヂングであった。ぼくはそのビルに出入りしている関係で偶然にこのイベントに出会うことになった。3回目以降は細野ビルで行われなくなり、ぼくも忘れていたがこの5回目(7月31日)はネットで見つけてかけつけたわけだ。
会場は大阪市西区新町1丁目の &’s SCENE、写真左上がその会場。これはもうイベントが始まっているときに撮ったもの。明るい階は2階、その上の暗いのが会場の &’s SCENE。
午後の7時から何組かのパフォーマーとDJのノイズサウンドが延々と続いて、最後にメインアクトの Leif Elggren が登場した(写真右上)。彼の目の前にはマイクスタンド、その前にiBook。マイクに顔をうずめるように、ひたすらに詩の朗読。日本語訳がバックの壁に投影される。iBookでエレクトロニックサウンドを演奏しづつけているのか、ほとんど動かない。
ぼくは詩の内容だけで、もうメロメロになってしまった。ロートレアモンやネルヴァル、エドガー・ア・ランポーなどの偉大な先人たちの血をひく詩人を前にしているようで、ひたすら畏敬のまなざしを向けていた。濃密な死の気配だ。パフォーマンスには Tetsuo Furedate のキーボードとのコラボレーションだ。
写真のDiscは、会場で買った Elggren のCD。今日はこれをずっと聞きながら考えていた。ノイズといってもライブのサウンドとはまた違う。しかし、どちらにせよ、非常に理知的なサウンドだ。構成というか、設計というか、考え抜かれたサウンドだ。ヨーロッパ人の理性を感じる。それはライフスタイルに密接にからんでいる現在進行形だ。つまり、美術館に陳列されているアートではなくて、息をしているアートだ。教養主義者たちの立ち入る領域ではない。
ぼくが感じ、考えたことは日本人パフォーマーたちとの差異だ。日本人は偶然や直感に依存しているように思う。結果、サウンドの依りどころを心の奥底に求めるしか他にない。これは、ぼくが30年以上も前にフリージャズで見て来たことだ。これに耐えられる心の持ち主はいない。というか、耐えれるまでやりつづけるのだから、いつか破綻することになる。そんなことを今日は考えていた。
PS
CDは会場に置いてあった5、6枚のCDから、Elggrenご本人にすすめてもらったもの(1枚しか買えないということで・・・)。このイベントに参加していた顔見知りの若い女性パフォーマーに通訳をお願いしたんだ。通訳さん、ありがとう。CDはとても気に入りました。
(2005.8.2 記)